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2008/08/02(土)

日記::2008年8月 モジモジ

共産主義の名の下に、その2

 承前。別に共産主義を擁護する気もないし、資本主義を非難する気もない。てゆーか、いまやどちらの言葉も多義的に過ぎて、それを単に擁護したり非難したりするだけではほとんど意味がなくなってしまっている。僕は僕が納得できるものを自分で考えたいと思うけれど、その中には資本主義的な要素も共産主義的な要素も両方含まれている。てゆーか、普通に考えて、そんなの当たり前だろう。

 何主義であれ、社会的決定に基づいて惨禍が引き起こされる場合には、ある特徴があると思われる。それは、社会的決定を「わたしとあなたの間におく」という大原則が踏みにじられていることだ。それは、あるときは「正しいことはわたしが知っている」とする傲慢さゆえに*1。あるときには、「正しいことはあなたが知っている」という謙譲を装った没主体性のゆえに*2。またあるときには、「正しいことなんか誰も知らない」という開き直りのゆえに*3。もう少し捻ると、「わたしも正しいことなど知らないが、しかし、あなたよりは知っている」という、限定的でありながら「わたしが知っている」とほとんど同じように作用するソフトな傲慢さゆえに*4。いずれにせよ、問題はそこにあると僕は考える。

 ということから、「十字軍はバカに勝てるか」「疑似科学を憎んでバカを憎まず」「バカへの信を問う」といった一連の記事の問題意識につながっている。

追記

 過去記事から再掲。
 何かを差異化することは不可避であり、そこに自分基準で優劣の物差しを持ち込むことも不可避であるから、形式としての「バカ」というものを逃れて生きることなんてできない。自分から見てバカにしか見えない誰かと、どうやってつながっていけるのか、ということが大事な問題。バカにしか見えてないんだったら、私にはそいつがバカに見えている、ということをちゃんと踏まえて考えていかないと、慇懃無礼さにおいて、同じことをしでかしてしまう。

 もちろん、バカと付き合ってられない、という場面も多々あるのは確か。でも、そういうときは、「疲れたからとりあえず中断」ということでいい。「もうオマエと話しても無駄だから」と言う必要はないし、よくよく考えれば、そのように言える根拠もない。

追追記

 マクロ経済政策とかだと、専門家に任せるしかないのかもしれないね。でも、ホントにそうなんかな。あるいは、どこまで、そうなんかな。専門家がやっていることを理解したい、とド素人が熱望する社会って、やっぱりまちがいにくいと思うんだよなぁ。

*1 : これが一番よく指摘されていること。

*2 : 2005年の総選挙を想起せよ。

*3 : 「苦渋の決断」系とか。

*4 : これはもう、ありすぎて虫唾が走る。


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