ようこそゲストさん

MOJIMOJI.ORG

メッセージ欄

2008年7月の日記

2008/07/31(木)

日記::2008年7月 モジモジ

教育の可能性

 学校ではバカは直せない、学校で習ったことなんか役に立たない、などと結構簡単に言われる。これは実証的な物言いではない。もちろん、学校でバカが直せる、学校で習ったことが役に立つ、といっても実証的な物言いではない。てゆーか、こういうことについての「実証」って、データの取り方や処理方法で結構融通無碍に結果を左右できてしまうので、そもそも「実証的な」思考自体が(少なくともこの場合には)うさんくさい。むしろ、それぞれの前提が含意することを考えた方がいい。

 仮に「直せない」、「役に立たない」を前提するとすれば、それは「人が人を教える」ということを根底から否定することになる。裏返せば、すべては自己責任以外のものではありえないことになる。そういう前提を取ることになる。自己責任論に落とし込みたくないのであれば、「直せる」、「役に立つ」の前提を取る以外にはありえない。

 とか言いながら、「実証的」なことも一つ。フィンランドの教育は世界一と言われるが、決してトップが抜きんでているのではない。落ちこぼれがダントツに少ないのだ。このことからすれば、「バカを直す」ことこそが教育にできることであり、むしろ、「天才を作る」ことの方にこそ限界がある。まぁ、自説に都合のよい証拠を探してみれば、ほらあった、というだけの話。信じるも八卦、信じぬも八卦。でも、フィンランドでやっていることと引き比べてみると*1、一応試してみてから考えたらいいんじゃないかね、という気はするな。

追記

 ちなみに、フィンランドの学校の学級崩壊ぶりはスゴイ。授業中に寝てたり休憩してたり編み物してたり、いたって自由。たまには勉強したいな、と思う、その瞬間をうまくつかまえているらしい。で、また飽きて他のことやりだすと、ほっとく。教師が主導する部分もあるんだろうけど(少なくとも、他の子の邪魔はしないとか)、日本の学校とは比べるまでもないわな。

内藤大助

 それはそうと、この人自身は嫌いじゃないんだよな。昨日の防衛戦は見ました。ボクシングはよくわかりませんが、見てておもしろかった。しかし、勝利者インタビューに突然闖入してきた亀田にはしらけた。まぁ、亀田の騒動がなかったら、内藤の試合も注目浴びたりしなかったところもあるでしょうし、その意味では功労者なんでしょうけど、そうか、あれか、イジメっ子に「おまえのおかげだ」と言うのと同じような気持ちで、亀田にも「ありがとう」ってことなんかな。食えなきゃボクシング自体やれないし、ね。切実だよな。実際、亀田の件がなければ、僕もボクシングとか見てないかもしれんし(そもそも、テレビ中継もされてなかったわけだし)。文化の問題みたいに、ボクシングの興行も公費で、ってわけにはいかんよーな気がするしなぁ。

 話がエライところに飛んだ。この件はまたいずれ考える(かもしれない)。

何に公費を出すか

 大阪の橋下知事の文化行政なんかも想起しつつ。てゆーか、単に切る切るゆーてるだけなんだから、文化行政ではなくて、文化行政からの撤退と言うべきなんだよな。まぁ、いいか。それはそうと、どういうものに公費を出すべきなんだろうね。音楽とか絵画とか演劇とか、そういうものに選択的に金を出す、となると、選別の基準がわからんし、餞別しないとすればキリがない。あるいは、選別の基準は、ある程度歴史主義的にやっちゃってもいいんかなぁ。まぁ、恣意的に、ってことですが。でも、恣意的に支出する代わりに、恣意的に削るってことにもなるんだろうな。

 生存には公費を出すべき、ってのは比較的わかりやすいな。それともう一つ、生存に公費を出すべき、ってことを理解し、それをいかに実現するかを討議し、そうした一連の活動を担っていく主体を作っていくための活動、すなわち教育と政治活動には金を出していい。てゆーか、話が少し飛ぶようだけれども、たとえばベーシック・インカムみたいなものが可能なら、それで空いた時間で無給の「文化活動」が行われる、ってのはあるだろうな。学問も含めて、基本はそれでいいような気がする。

 これもまとめない。続けて考える。

※コメントは、掲示板へお願いします。

2008/07/29(火)

日記::2008年7月 モジモジ

内藤大助物語*1

 昨日見たTVドラマ(見てしまった、というべきか)。内藤がイジメられっ子の弱かった自分を吹っ切るためにボクシングを始めて、新人王にまでなったのは確かにすごい(で、その後世界チャンピオンにまでなったのは、さらにすごい)。けれども、ドラマの最後のシーン、新人王になった内藤の元にヌケヌケと謝罪にきたイジメっ子に対し、「オマエのおかげでここまで来れた」と返す内藤。これは酷い。本当に酷い。この瞬間、イジメ批判という要素は完全に吹き飛び、すべてをイジメられっ子の内面の問題へと収斂させてしまった。何度でも言うけど、本当に酷い。内藤が悪いのか、脚本家が悪いのかは知らないが。

 別に、イジメっ子と和解するな、というんじゃない。しかし、「オマエのおかげ」はないだろう。イジメられているすべての人には、勉強ができなくても、スポーツができなくても、ましてボクシングのチャンピオンになどならなくとも、「とにかくイジメるな」と言う権利がある。イジメられっ子がイジメを糧にすることがあるとしても、イジメられっ子はイジメを糧に「しなければならない」のではない。イジメられっ子がイジメを糧にしようとしまいと、とにかくイジメはやめろ、という一点を譲ってはいけない。その一点を守れない奴には、イジメられっ子に「ガンバレ」、「強くなれ」などと言う資格はない。

 むしろ、こういうべきなのだ。仮にイジメられていなかったら新人王にはなれなかったとしても、それでもイジメなどあるべきではなかった、と。イジメっ子は心底から悔いろ、と。内藤が新人王にならなかったならば、ついぞイジメを反省することもなかっただろうこと、そのことに心底からおののけ、と。ホント、テレビは地獄だな。

追記

 「罪を憎んで人を憎まず」というけれど、「人は憎まずとも罪は憎む」というべきなんじゃないかな、むしろ。

*1 : 「介」になってたので、「助」に修正。「助平」の「助」ということで。いや、内藤は好きなんですけども。

2008/07/28(月)

日記::2008年7月 モジモジ

やっぱり、悪くなってんなぁ

 足の痛みは、だいたい1ヶ月くらい前の状態だろうか。3歩進んで2歩下がる。昨日痛めたとき、大して重い荷物を持ったわけでなし、どうしてなんだろう、と思っていたのだけど、謎が解けた。今日お会いしたスポーツ科学の先生によると、何かを持ち上げるときには意識してお腹に力を入れるようにしなければならない、とのこと。なるほど、昨日痛めたときには二人で机を持ち上げたので、腕に力を入れるタイミングに意識がいってしまって、お腹に力を入れるのを忘れてたような気がする。一人で荷物を持つときにはずっと大丈夫だったのになぁ、くだらんことでぶりかえしてしまった。こうして体で代償払いながら覚えていくしかないんだろうか。

 それにしても、医者のいう「重いものを持つときには気をつけてください」というのは、いかにも具体性がないよな。「「うんっ」と唸るような感じでへそのあたりに力を入れる、すると腹筋にも自然に力が入るし、すると、背筋にも自然と力が入る」とかいわれると、かなりわかりやすい。

玄人の放言

 承前。僕が「素人の放言に寛容であるべき」と述べるとき、「あくまでも正しいのは玄人の方」ということは前提されていない。この点に注意。玄人こそがおかしなことを言っている、業界全体でおかしなことを言っている、ということは十分にありうるのだということを、重々肝に銘じておかねばならない。たとえば、尊厳死にまつわる生命倫理業界の標準的スタンスは、十分に批判に値するものだ。つまり、「玄人の放言」でありうる。「死んだ方がマシ」とされてきた生命とともに生きてきた「素人」の方がよほどまともなことを言っている、ということがある。

2008/07/27(日)

日記::2008年7月 モジモジ

ヘルニア悪化か?

 朝、机を持った拍子に腰に物凄い電撃が走る。なんじゃあれは、あんなの生まれて初めて体験した。というような痛み。幸い、身動きできないというような酷い状態にはならなかったものの、少なくとも、2、3週間前の状態にはなっちゃったのかなぁ、という感じ。とりあえず、オープンキャンパス二日間は終了。明日も出勤せにゃならんしなぁ、あんまり悪化してないといいけど。

2008/07/26(土)

日記::2008年7月 モジモジ

今日は仕事

 オープンキャンパスで。明日も。しかも、現場責任者。痛み止め入れてがんばります。もつかな。うーむ。

終了

 無事終了。なんとかなるもんだ。

諸科学の協同

 というようなことを、時々耳にする。そこで感じること。

 たとえば、障害者の自立生活運動を思い出すとき。あるいは、一つの具体例でいえば、ヘルパーによる人工呼吸器の痰の吸引が可能となった経緯を考えるとき。「諸分野の協同」は、困難を生きようとする人の実際の必要に寄り添うところで生まれてくるように思う。だから、「諸分野の協同」を目指す人が見出して尊重しなければならない人、耳を傾けなければならない人というのは、どの分野の専門家でもなく生きているような人であることが多いように思う。そもそも、困難を生きるとは、なんらかの分野の専門家になるほどの余裕を持てない、持ちにくいということなのだから、それも当然な気がする。

 そういう人に寄り添い、そういう人の声に耳を傾けるというのは、ある種の「ダメな議論」に含まれるベクトルを引き受けるということであろうと思うし*1、それは「素人の放言」に寛容であるべきだと、僕が考える理由でもある*2。でも、そうはなってないように見える。むしろ、多くの場合、「非科学的なもの」あるいは「未だ科学的な言説として洗練されていないもの」を敵として排除する強い傾向性を持っているように見える。そんなんじゃ、○○学者たちが分野を超えて仲良くする以上の意味にならないじゃないか。専門家の傲慢が、諸専門家の傲慢になるだけじゃないか。
counter