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2008年7月の日記

2008/07/24(木)

日記::2008年7月 モジモジ

苦痛を与えたいという欲望

 殺すことというのは、いいこと悪いこと以前に、とてつもなく面倒くさいことのように思う。仮に、捕まらないように殺して逃げるとして、その準備やらその後やらいろいろ考えると、そんなにまで面倒なことをしてでも殺したい、という感覚を僕は知らない。逆に、もう捕まってもいいや、でやるとして、取調べとかメディアの対応とか、多分ほっといてはくれないだろうから、それはそれで面倒くさい。相手と自分の関わりがなくなる(あるいは、我慢できる程度に減る)なら、それで十分。

 相手に苦しみを与えたい、という感覚は、ちょっとわからんのだ。誰かに苦痛を与えるということは、僕にとってはかなり直接的に苦痛だ。それを快だと感じる、という感覚はない。誤解のないように申し添えておくと、これは相手を思いやっているのではない。たとえば、次のようなことを考えてみたらいい。誰かがケガか病気で呻いて苦しがっているとして、その人がどんな人か知らなければ、その呻いて苦しんでいる様子を目撃すること自体が、苦痛ではなかろうか。これって、相手を思いやるとか、そういう理性を働かせる以前に生じている苦痛のように思う。これは殺すことに限られないな。

 復讐物語の類は、少なくともそれをカタルシスとして描くものであるならば、やはり共感しづらい。僕自身は結構根に持つタイプではあるんだけど、相手を殺したいと思う、というのとは違う気がする。どう違うんだろ。「根に持つ」というのは、相手の存在を前提しながらでも可能な気がするわけですが、どうだろう。

 なんかキレイに書いているような気もするので、とりあえず、以上の記述を僕における真実だとはみなさないようにお願いします。あくまで、一つのモデルとして。自分自身ともう一度比較してみるために、こうやって形にした上でちょっと寝かしてみます。

※コメントは、掲示板へお願いします。

2008/07/23(水)

日記::2008年7月 モジモジ

大人扱い

 自主性を尊重せよだとか、あまり甘やかすと後で苦労するだとか、「相手を大人扱いする」ことがしばしば言われるのだが、それって単にこちら側の配慮義務を解除してるだけ、ってのが多いんだよな。たとえば、このような意味で「学生を大人扱い」して一番楽なのは教師。これは間違いない。全部放置でいいんだもの。んで、成果が出ないのは全部学生のせいだよな。ホント、楽でいいよね。これ。

 でも、それでいいわきゃあないわけで。一昨日書いたこととも重なるけれども、問題を小分けにして、その子にできるような形にして与えた上で、それに実際に取り組むというところでだけ「大人扱い」にしてやる。失敗してしまった場合でも、その失敗から「どこでつまづいているのか」を読み取ってあげた上で新たな課題を出し、さらに取り組むというところでだけ「大人扱い」にしてやる。何を任せて何を任せないか、できるだけ丁寧に考えて、任せた上でその成果にもちゃんと関心を払い、徐々に一人立ちさせていくというのが「大人扱い」にするということ。「大人扱い」って結構面倒だよ。「子ども扱い」(=何でも先回りして、こちらがやってあげる)の方がよほど楽。

 そういう意味では、何かができないなら、そのできないことにおいては常に子ども。何歳であろうと。そこまで懇切丁寧にやってられないことはしばしばある。あるのだが、「もう大人なんだから、それ以上はやってやる必要はない」と言える根拠はないし、ないなら言ってもいけないだろう。ただ、「時間がないからできない」とだけ言えばいい。それがあなたのせいではないとしても、できないその人のせいでもないということは確認しておく必要がある。少なくとも、教師が学生・生徒に、上司が部下に、先輩が後輩に、という関係においては、そうであるべきだろう。

 親が子に、というのは、外した。そうであった方が本人たちにとってもよいだろうとは思うけど、責任の意味は違うだろうから。

追記

 そうか、僕がよいことを書いているのは最近限定か、と軽く凹む(嘘)。あと、「愛情を持った突き放し」ってのは確かにあると思うのですが、でも、突き放したと言いつつ、コッソリ見てるというか、そういう感じが大事かなと思うわけです。

 しかし、たくさんの「必要なこと」をスルーしないと、日常生活ができない。そのことについては、やっぱり軽く凹む(これはホント)。

2008/07/22(火)

日記::2008年7月 モジモジ

日常の慣性に抗う

 いつだったか、ちょっと忘れてしまった。たぶん、今年のいつか。研究室から講義室に向かう途中、向こうからやってきた学生が急に「ヒッ」というような声をあげたかと思うと、すぐさま泡を吹いて倒れた。一瞬、何が起こったかわからなかった。のだが、とにかく駆け寄る。意識がないようではあるが、とにかくすぐそばにあった授業準備室の事務員さんに声をかけ、救急車を呼んでもらう。教務の事務室と医務室にも連絡がいったらしく、何人かの職員の人が駆けつけてきた。状況の説明とかしてるうちにタンカがきて、救急車の方に運んでいったので、僕は講義に行く旨を伝えて、その場を後にした。その間、10分少々というところだったか。

 その学生が倒れた瞬間、まず考えたことは、「講義に遅れる」ということだった。いや、人が一人倒れたんだから、そういうことじゃないだろう、とすぐに思い直したのだが、しかし、一番最初に念頭に浮かんだのはそれ。まだ日常の延長線上でしか思考できない瞬間てのがあるんだよ。そこを離れるのに、10秒弱くらいはかかったかと思う。初動に、ちょっとした意識的な方向付けが必要。でないと、その場を通り過ぎて見なかったことにするというのは、案外、やってしまいかねない気がする。

 次に、とりあえず何かをするとして、先に助けを呼べばいいのか、それとも傍によって確認すべきことが何かあるのか、最善に行動が何なのかわからなくて、一瞬固まってしまった。動けたのは、「ベストの対処ができなかったとしても、仕方ない、とにかく何かすること」と、意識的に考えたから。それで、すぐそばにあった事務室の窓を叩いて、救急車を呼ぶようにお願いすることができて、ともかく動きが止まってしまうことは避けられた。一歩目が動けると、次は比較的動きやすい。

 なんでこんなこと思い出したかというと、これを読んだから。>「卑劣だろうか。」@kom’s log
 今ここが緊急時だよ、ということをわかりやすく教えてくれるナレーションとかないんだよね。日常を離れて最初の一歩を動くのは、難しい、とまでは言わないけれど、やっぱりちょっと「慣性に抗う」感じが必要だ。でも、子どもがいると、結構こんな感じの緊張感がずっと続いてるんだろうなぁ。子どもが急に熱出したとか、ゲロ吐き出したとか。それだけでも疲れそうだ。尊敬する。

 このネタは、あと二つくらい書けるな。介護ネタとAEDネタ。

2008/07/21(月)

日記::2008年7月 モジモジ

「できない」を前提に考える

 承前。昔、教えてたとある子の話。課題は与えてみるんだけどちっとも進まず。それにしたって何にもできないというのもひどくて、やる気がないんかなと不審にも思う。どうも、文章を書くこととか自分の意見をいうとか、そういう「表現」に関わること全般がすごく苦手な子だったらしい。

 とはいえ、仕方がないので、問題を小分けにすることにした。第一段階。課題文に対して、「これはアリだ、肯定したい気がする」なら「○」、「これはない、否定したい気がする」なら「×」をつけよ、と指示しておいた。すると、これはできた。第二段階。「○」、「×」の理由になる大事だと思われる部分に下線を引け。これはちょっとまごついた。全部大事に見えてしまうのだ。第三段階。とりあえず三、四ヶ所に下線を引け。二つずつを比べて、より大事でないと思える方の下線は消す。これはまぁ、できた。

 とまぁ、こんな調子で、二人の間で共有できる言語を作っていくような感じで問題を進めた。こういうやり方が理にかなっているのかどうかはわからない*1。手も足も出ないので、とりあえず思いつきでいろいろ試しながら考えてこうなった。それなりに前進はあって、最後の方では自分の意見を人前で話すことも、ある程度できるようになった。「できない」は責めても仕方がなくて、「できない」を前提に何か考えられるべきだとは思うんだよな。

 そんな子、大学卒業できるのかよ、とか思われそうですけど、まぁ、4年ではできませんでした。論述試験とかレポート評価の講義はことごとく落とされてましたね。でも、過去問があったり、試験範囲と聞き方がある程度限定されているような試験ならちゃんと準備して合格はしていたので、そういう系の科目で単位をかき集めてなんとか卒業しました。

追記

 ちなみに、なんでそんなにまで不器用だったのかというと、どうも過去にイジメにあっていたことに原因があるようだ。何か質問したりやらせたりして、その子が失敗するのを見てみんなで笑う、という類の。「ちょっとイジってただけ」とかゆーてたらしいですよ。やる方は。でも、そのために、その子の中では「表現」が「笑われる」ことに条件付けられてしまっていたのだろう。それから何年も経っているのに、こんなに苦しまないといけない。やった方は忘れてんだろうな。理不尽だな、と思います。今も大丈夫だろうか。心配ではありますが。

追記、その2

 「研究会 発達障害のある大学生への支援」というページを発見。これはおもしろそう。あと、何冊か本を注文。

追記、その3、やる気がないは自己責任?

 少なくない学生たちにおいては、「能力がない」と思われるくらいなら「やる気がない」と思われる方がマシだと思っているフシがある。だから、実際わからない場合には、「わかるつもりがない」という不真面目さアピールに走ることは十二分にありうる。「やる気がない」と「能力がない」の境目はそう簡単に判別できるようなものではなく、「やる気がない」を切り捨てるならば、それは「能力がない」のを切り捨てることになるのと、結果的には同じことになる。

 しかも、切り捨てた側には、「あの子は、やる気がなかったのでどうにもならなかった」という主観的判断のみが残り、後で反証されることがほとんどありえない。

*1 : 専門的にはどんな風に考えられているのかは、気になります。詳しい人いらっしゃいましたら、掲示板にコメントください。

人と関わることについて

 共同体主義者がいうみたいに、人と人との関わりこそが人間の幸福だったり価値だったり、というような言い方は嫌いなんだけど、他方で、個人の趣味に沈潜しててそれで何が悪い、という類の自由主義者の発言にも違和感を感じる。笙野頼子のいうところの「ろりりべ」って奴でしょうか。

 他者との関わりは、いいとか悪いとか関係なく、なければどこかにひずみが出てしまうもの、誰かがやらなければどこかしわ寄せをもたらしてしまうものなのだ。「好きな人だけでやっておけばいい」という言い方は、共同体主義者に対する反論にはなっても、他者との関わり一般から降りてしまうことを正当化するものではない。この社会を作る仕事*2から降りていい奴なんてどこにもいない、勝手に降りるな、と思う。オタクはオタクでも、ろりりべになってはいけません。なるなら、オタクコミュニストにならないと。

*2 : 単に、賃労働をする、というだけでは、これには足りません。

2008/07/20(日)

日記::2008年7月 モジモジ

机周りの掃除

 少し仕事の隙間ができたので、椅子に座れなかった間に荒れ放題になっていた机周りを整理している。だいぶ片付いた。

暴れる子どもの現象学

 実は、金曜日に台湾から妹+子ども二人が来日してて、ウチに泊まっている。8歳女子と4歳男子なので、まぁ、ウルサイ。ちょうど忙しい時期なので大変は大変なのだが、遠出に付き合うのは無理だぞとあらかじめ話も通してあるし、睡眠・仕事問わず雑音耐性はかなり高い方なので、僕の方は基本的に問題なし。ただ、何を思ったか、ビデオの主電源を切りやがったので、昨日の「瞳」の録画ができてない。今週は里子の一人が再び母親と暮らしはじめるためにみんなと別れる話で、結構山場。ショックデカイ。しかし、子どもというのはもともとそういうものであって、腹は立ててもしょうがない。

 それにしても、ということであるが、下の男の子があまりに暴れる&言うこと全然聞かないので、周辺では「親の躾が悪い」といわれているのだが、まぁ、そうやって親のせいにするのは酷だよな、と思う。以下、実証してない(できないし、する気もない)印象論。

 思うに、少なくとも一定割合の子たちについて言えば、すぐさま躾けようと思ったって無理。おそらく「人の迷惑」という概念自体がなく、考慮に入れるのは自分の心身の苦痛だけである。どんなに怒っても、その場をやり過ごす以上のことは考えない。そういうタイプの子どもがいる。ただ、躾けるために怒ったり、言って聞かせたりすることが無意味というわけではない。年単位で時間が過ぎて、その子の認識枠組みの中で他者の概念が育ってくるとともに、過去になされた説教の意味がだんだんと理解できるようになってくる(かもしれない)。申し訳なさと後悔と、あとは開き直りみたいな諦念とともに。親のいうことなどロクに聞かずに育った自分の幼年時代を(そして、親は何も言わなかったわけではないことも含めて)思い返すに、そう思う。

 とすると、これはもう、そういう生き物だと思って諦めるしかないわけなんだよな。第一に、短期的な効果はなくてもとにかく言っておくこと、第二に、言うことをきかないことを前提に被害拡大をできるだけ阻止すること、やれることってこれくらいじゃないかなぁ。天災対策と同じ。まぁ、こんな風に思うので、親を責めても意味なかろう、と思う。むしろ、短期的な無駄を承知でガンバレ、と励ますくらいだろうか。暴れる子どもと向き合うご両親を街で見かけると、ホント、尊敬するわ。マジで。

 こういう子って、おそらく、性別関係なしにいることはいるんだろう、と思う。ただ、女の子の方が育てやすいとよく言われるのは、やっぱり比率としては男の子の方に多いんだろうな、とは思う。実際、僕は男の子のケースしか知らんし。

蜘蛛の糸から

……自分一人でさえ断(き)れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数(にんず)の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断(き)れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎(かんじん)な自分までも、元の地獄へ逆落(さかおと)しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這(は)い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
 そこでカン陀多*1は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。
 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカン陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断(き)れました。……*2
 第一に、糸は切れそうな気配を見せたわけではない。カン陀多が勝手に「支えきれない」と恐怖した。「共に生きるか共に死ぬか」を堅持すべし。第二に、「下りろ」とだけ言えばいいのに、なぜか「この蜘蛛の糸はおれのものだぞ」とまで述べている。極限状況にあってさえ貫かれる自己正当化の欲望。

*1 : 「カンダタ」。「カン」は「牛へん+建」。

*2 : 芥川龍之介「蜘蛛の糸」@青空文庫。それにしても、ネットで当たり前みたいに全文読める。スゴイ時代だよなぁ。やっぱり。

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