▼ 2008/07/06(日)
■新しいヘーゲル
長谷川宏『新しいヘーゲル』、第一章を読む。ヘーゲルは「正反合の弁証法で社会が動いていく」という、どこか予定調和的な話をするという印象があって読まず嫌いで通してきた。でもこういう印象ってホントにあてにならんよなぁ、ということをこのところたびたび経験するものだから、とりあえず、何でも一度は手をつけてみよう、ということで手にとった。ヘーゲルの問題意識は、宗教や社会の権威に包摂しきれない自由な個人から構成される近代社会を肯定しきれるか、というところにある。具体的に言えば、一人一人が自己主張をし、対立や不和が常態であるような自由な社会を肯定しきれるか、というところにある。これに対して、ヘーゲルはハッキリとイエスと言う。共同体の包摂による一見したところの平穏さを超えて、一人一人の自己主張が対立をハッキリと浮き彫りにし、それを梃子として社会がダイナミックに変化していく、そういう社会の、どこか混沌としたあり方を、社会の発展のプロセスとして断固肯定しよう、というもの。なるほど、そういうことだったか。印象と全然違うやんね。
あいだ飛ばして、第六章「ヘーゲル以後」。ヘーゲルというのは「人間の生きる世界の全体を普遍的な理性によって完全にとらえきることができる」という、「発展」というものに対して結構楽観的なのな。いつだかどこかで、「世界は次第によくなっていくものだ」とか自分でも書いたことがある。真面目にそう信じてたというよりも、そのように想定しなければ、この目の前の混乱に巻き込まれて疲弊していく甲斐がないような気がしたので、とりあえず(あまり覚悟なしに)そう書いてみた、という感じ。だから、ヘーゲルみたいなことを言いたくなる気分は、そういう意味であるならば、分かる気がするな。けれど、これはどうにも信じきれない。未来は不確定で、良くも悪くもなりうる。
ヘーゲルの「発展」へのオプティミズムに反発したのが、キルケゴールなんだそうな。長谷川によれば、キルケゴールの「反復」とは、ヘーゲルの「発展」に対置されるもので、「対立をはらみつつ持続的に発展していく人生、というイメージを向日的にすぎると感じていたのはたしかで、やりなおせるものならやりなおしてみたい、といった一見不条理な痛苦の思いに人生の真実相を見ようとしている」(p.176)とのこと。ニーチェの「超人」、「永劫回帰」にも共通している*1。そんな風につながっているのね。
*1 : そうなると、ドゥルーズが「差異と反復」と言うときにも、その「反復」には同種の意味が込められているのだろうか。
■「国営ヤクザ」あるいは「合法マフィア」
「死ねばいいのに - 無産大衆」。北海道でのデモ弾圧、相変わらず酷いな。コメ欄の「許可申請したデモ中に、勝手に車に突入して公務執行妨害で逮捕って、転び公妨以上の斬新な逮捕術だな」というのはまったくその通りで、いや、ホント酷い。なんつーか、テロ対策がテロ化してますよね。法措定的暴力を支えるものには二つあって、一つは法措定的暴力を行使する主体なり組織なりの物理的実力であり、いま一つはそうした組織に対する信頼(というか妄信というか、そのような)権威づけ。前者の意味での法措定的暴力を根絶することはできないのであり(つまり、警察をなくしたところで、一番強い奴が警察の代わりになるだけ)、だから僕はアナキストにはならないんだけど。でも、というより、だからこそ、後者の意味において法措定的暴力に対する批判や監視が決定的に重要なんだよな。それだけが警察権力の暴走を抑制しうる力なんだから。警察という組織が仮に有用であるとしても、それは警察という組織に対する批判や監視や疑念を前提しなければならない。だから、アナキズムはアナキズムに同意できないすべての人にとっても欠かすことのできない不可欠な思想、基本的態度ということになる。
つまり、そういうことを踏まえずにアナキズムを誹謗するような輩が、警察権力の暴走を準備しているんだよな。こういうことを当のアナキズム批判者はさっぱりわかってないようで、それが頭痛い問題なんだけど。
追記
「反サミットデモでの逮捕における、現地の参加者情報と、報道の違い - Close to the Wall」。「国営ヤクザと太鼓持ち - 猿゛虎゛日記」。
こちらは、デモ弾圧についての報道が酷い、といった話。Close to the Wallのking氏が言う「この「騒ぎ」は、そもそも警察が車に突撃したから起こった騒ぎではないのか、という疑いが起こる。因果関係が逆転していないか」は、まぁ、そうなんだろう。先に述べた理由もあって、デモ隊や機動隊が具体的に何をしたのかが明らかにならない限りは非は機動隊の側にあるはずだという推測がデフォルトでなければ、力を均衡させることなんかできない。
追追記
はてなに記事を書きました。久しぶり。>「オマワリの主人の自覚が必要」■商業化する大学、その3
承前。デレック・ボック『商業化する大学』。この本の構成だが、3、4、5章では商業化の3つの側面についての現状把握があって、6章でまとめた後、7章以降でそれらに対する改善策が検討されるようだ。今回は第4章、科学研究における商業化の影響を見る。簡単に整理すると、次のようになる。
- 多くのケースにおいて、大学が企業からの資金提供に依存する比率は限定的である。だから、企業からの資金が大学における研究の公共性を損ない、私的利益に従属させるようになる、という主張には根拠がない。
- ただし、企業から資金が提供されている範囲においては、秘匿主義、利益相反、研究結果に影響を及ぼそうとする企業努力がハッキリと観察される。よって、企業資金への依存度がどんどん高まっていくことには弊害の懸念を持つ必要はある。
ちなみに、『ナイロビの蜂』という映画は、こういう企業の利害に絡んだ殺人事件を題材にしたものらしい*2。そのうち、見てみたいor読んでみたい。
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