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2008/07/10(木) 読んだ本、2008年7月

読書記録 モジモジ

08/07/10

 この十日ほどの間に読んだ本。

 瀬山士郎『読む数学 通読できる数学用語事典』。これはわかりやすい。前半半分については中学3年生程度で、全体についてなら高校2年生程度で読める内容。数学はとかく敬遠されがちだけど、ホントに苦手かどうかは、意外とわからない。数学の抽象的な思考が苦手だというよりは、抽象的思考の部分をきちんと納得させないうちに計算練習なんかさせられることによる中途半端感が災いしてることも多いような。本書はオススメ。

 紙屋高雪『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』。ぼちぼちおもしろかったです*1。でも、(著者には悪いですが)きあさんのマンガの方がお気に入りだったり*2

 森達也『いのちの食べかた』。1時間で読めた。多分小学生でも読める。内容はとてもとても大事なこと。必読。

 飯田泰之『ダメな議論』。これは1時間半で読めた。役に立つ本だと思うけれど、ひっかかるところもある。その点については別の場所に

 クルーグマン『格差はつくられた』。中流階級というものは、所得分配を市場にそのまま任せるのではなく、政策的に積極的に関与することによって作り出されたものというスタンスから、昨今の(アメリカ社会における)格差拡大を政府の怠慢として厳しく批判している。似たような構図は日本でもあてはまる。できれば広く読まれてほしい本。オススメ。

 長谷川宏『新しいヘーゲル』。ヘーゲルのことは全然知りませんが、一つのわかりやすいイメージを持つことはできました。読みやすい本であることは確か。関連記事その1その2

 木田元『ハイデガーの思想』。ハイデガーのことも「ナチに協力した」以外のことを全然知らんのですが、そこも含めてわかりやすい本でした。上記『ヘーゲル』よりは難しい内容まで踏み込んでるかな。

*1 : 著者サイト。>紙屋研究所

*2 : きあさんのサイト・るるてん(シモネタ注意)。


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2008/07/10(木)

日記::2008年7月 モジモジ

不親切な教師

 大学時代の話。ある、必修科目の講義だったんだけど、とにかく、板書も配布物も何もなしに、90分間ひたすらしゃべり続ける。決して早口ではないが、とにかく、ずっと休憩なしにしゃべり続ける。それを週二回、半年間続ける。必修だから仕方なしにとっているのだが、かといってあちらから歩み寄ろうという雰囲気のかけらもない先生だったことに反発し、どうにもやる気にならなくて、案の定不合格にされて、それでしばらくふてくされたりしてた。でも、必修だから取らなアカンのよなぁ。理不尽だとか思いながら、でも、翌年もう一度履修した。

 そのときは、不合格にされたら抗議してやろう、という腹づもりもあったので、とにかく合格するためにできることは完璧にやることにした。何人かで協力して授業中に話されたことは片っ端からノートに書き留めていき、互いのノートをつき合わせて意味の通らないところを議論しながら詰めていき、最終的に、完璧な講義ノートを作った。作ってみて思ったのは、その延々話し続けた講義を整理したノートは、ちゃんと辻褄の合うストーリーになっている、ということだ。その教授は、講義中、一度も何かを参照する、ということがなかった。90分×2回/週×12週=36時間ひたすらしゃべり続けたものをちゃんとした一つのまとまりをなす、というのは、これはスゴイことだ。相変わらず好きにはなれなかったが、しかし、スゴイとは思った。果たして、試験の出来はどうだったかというと、ちゃんと「優」をもらえました。

 今、自分が教える側に立つときに、同じようにはやらない。やはり、いかに教えるか、というところは時間と労力を十分に使うべきところだと思う*1。それは「そういう時代だから」というのではない。それはやはり必要なことだと、教室にいる一番できない子、あるいは、一番ふまじめな子を念頭に置きつつ*2、そう思う。ただし、学生・生徒の側から、「あの先生は不親切だから」「あの先生の話はおもしろくないから」という理由で、あらかじめ学習を放棄してしまう態度については、最大限慎重さが必要だ。そういうことは時々学生にも話す。その人から何が得られるかは、後にならないと分からない。とても大事なものは、それを目指そうにも事前には知りえないから目指しようがないということ、そういうものは副産物としてしか得られないことが多いということ、それはこの講義に取り組んだ経験から学んだことではあった。もちろん、結果的に、何も得られないこともあるけれど、それは取り組む前に言っても仕方のないことだ。

 以後、その教授が好きになったというわけではなく、相変わらず不親切な人だと思っていた。しかし、一目は置くようになった。少なくとも、この教授に出会ったことを幸運だったとは思う。機会を生かすのは、やはり自分だ。

*1 : といって、十分に出来ているとは全然思いませんが。

*2 : 一番できない子を念頭に置く人は、そこそこ多いと思う。他方、一番ふまじめな子には、結構冷たい人が多いんじゃないかな。でも、僕はここは大事なところだと思う。そのうち、何か書くかもしれない。

ダメな議論

 飯田泰之『ダメな議論』。しばらく前に読んで、モヤモヤしてた。なんでモヤモヤしてるのか、ちょっと考えてた。以下に書くことは、この本への批判には留まらない一般論。

 ダメな議論を避けて通るためのリテラシーを、できるだけ機械的な手続きとして示すことへのニーズは広くある。それは役に立つだろう、ということもわかる。けれど、次のようなことを考えてみる。この社会のありように向けられてきた様々な異議申し立ての多くは、本書が要求する水準をみたした議論として現われることはほとんどない。パッと思いつくところでは、公害被害者の救済や障害者解放運動、リブといったものを考えてみればいいと思う。

 社会批判の言説は、多くは学問的な訓練を受けていない人たちが必要に迫られて声を上げるところから出発する。もちろん、その後叩かれたり、いろんな人が参与してその主張を鍛え上げたりする中で、強度のある議論に育っていくのだけれども、ともかく、最初は相当に未熟で隙の多い議論として出発する。だから、「ダメな」議論であろうとも、そこに含まれたベクトルに寄り添おうとする人たちが必ず必要になる。

 そこで提示される議論がその理路においてダメだというのとは別に、その議論が含むベクトルというものがあり、そのようなベクトルを生み出すところの生きられている事実がある。そうしたベクトルまで含めてダメだと言うのか*3、あるいは理路はダメでもベクトルは引受けようと言うのか、そこにはハッキリ違いがある。誤解のないように重ねて言うが、ベクトルに共感できれば理路はどうでもいい、と述べているのではない。同時に視野に置かれるべき二種類の話がある、ということ。理路のみを問題にする態度は、ベクトルへの共感から理路における問題を軽く見る態度と同じくらい問題があると思う。

*3 : たとえば、歴史修正主義者の議論に対しては、僕はそう言うと思う。

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