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2008/07/21(月)

日記::2008年7月 モジモジ

「できない」を前提に考える

 承前。昔、教えてたとある子の話。課題は与えてみるんだけどちっとも進まず。それにしたって何にもできないというのもひどくて、やる気がないんかなと不審にも思う。どうも、文章を書くこととか自分の意見をいうとか、そういう「表現」に関わること全般がすごく苦手な子だったらしい。

 とはいえ、仕方がないので、問題を小分けにすることにした。第一段階。課題文に対して、「これはアリだ、肯定したい気がする」なら「○」、「これはない、否定したい気がする」なら「×」をつけよ、と指示しておいた。すると、これはできた。第二段階。「○」、「×」の理由になる大事だと思われる部分に下線を引け。これはちょっとまごついた。全部大事に見えてしまうのだ。第三段階。とりあえず三、四ヶ所に下線を引け。二つずつを比べて、より大事でないと思える方の下線は消す。これはまぁ、できた。

 とまぁ、こんな調子で、二人の間で共有できる言語を作っていくような感じで問題を進めた。こういうやり方が理にかなっているのかどうかはわからない*1。手も足も出ないので、とりあえず思いつきでいろいろ試しながら考えてこうなった。それなりに前進はあって、最後の方では自分の意見を人前で話すことも、ある程度できるようになった。「できない」は責めても仕方がなくて、「できない」を前提に何か考えられるべきだとは思うんだよな。

 そんな子、大学卒業できるのかよ、とか思われそうですけど、まぁ、4年ではできませんでした。論述試験とかレポート評価の講義はことごとく落とされてましたね。でも、過去問があったり、試験範囲と聞き方がある程度限定されているような試験ならちゃんと準備して合格はしていたので、そういう系の科目で単位をかき集めてなんとか卒業しました。

追記

 ちなみに、なんでそんなにまで不器用だったのかというと、どうも過去にイジメにあっていたことに原因があるようだ。何か質問したりやらせたりして、その子が失敗するのを見てみんなで笑う、という類の。「ちょっとイジってただけ」とかゆーてたらしいですよ。やる方は。でも、そのために、その子の中では「表現」が「笑われる」ことに条件付けられてしまっていたのだろう。それから何年も経っているのに、こんなに苦しまないといけない。やった方は忘れてんだろうな。理不尽だな、と思います。今も大丈夫だろうか。心配ではありますが。

追記、その2

 「研究会 発達障害のある大学生への支援」というページを発見。これはおもしろそう。あと、何冊か本を注文。

追記、その3、やる気がないは自己責任?

 少なくない学生たちにおいては、「能力がない」と思われるくらいなら「やる気がない」と思われる方がマシだと思っているフシがある。だから、実際わからない場合には、「わかるつもりがない」という不真面目さアピールに走ることは十二分にありうる。「やる気がない」と「能力がない」の境目はそう簡単に判別できるようなものではなく、「やる気がない」を切り捨てるならば、それは「能力がない」のを切り捨てることになるのと、結果的には同じことになる。

 しかも、切り捨てた側には、「あの子は、やる気がなかったのでどうにもならなかった」という主観的判断のみが残り、後で反証されることがほとんどありえない。

*1 : 専門的にはどんな風に考えられているのかは、気になります。詳しい人いらっしゃいましたら、掲示板にコメントください。

人と関わることについて

 共同体主義者がいうみたいに、人と人との関わりこそが人間の幸福だったり価値だったり、というような言い方は嫌いなんだけど、他方で、個人の趣味に沈潜しててそれで何が悪い、という類の自由主義者の発言にも違和感を感じる。笙野頼子のいうところの「ろりりべ」って奴でしょうか。

 他者との関わりは、いいとか悪いとか関係なく、なければどこかにひずみが出てしまうもの、誰かがやらなければどこかしわ寄せをもたらしてしまうものなのだ。「好きな人だけでやっておけばいい」という言い方は、共同体主義者に対する反論にはなっても、他者との関わり一般から降りてしまうことを正当化するものではない。この社会を作る仕事*2から降りていい奴なんてどこにもいない、勝手に降りるな、と思う。オタクはオタクでも、ろりりべになってはいけません。なるなら、オタクコミュニストにならないと。

*2 : 単に、賃労働をする、というだけでは、これには足りません。


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