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	<title>MOJIMOJI.ORG -- Random Note</title>
	<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/</link>
	<language>ja</language>
	<description></description>
	<copyright>Copyright 2008</copyright>
	<pubDate>Sun, 01 Jun 2008 03:58:25 GMT</pubDate>
	<lastBuildDate>Fri, 29 Aug 2008 01:33:07 GMT</lastBuildDate>
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	<docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 
	<item>
		<title>ピグー、所得</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/094#tm1212292705</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/094</guid>
		<category>経済学::厚生経済学</category>
		<pubDate>Sun, 01 Jun 2008 03:58:25 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　ピグー『所得　経済学入門』、東洋経済新報社。<br>
<blockquote>
　かなり最近に至るまで、分配の不平等を緩和するために、購買力を富裕な人々から貧しい人々へなんらかの仕方で移転することを目的とする国家活動を支持する諸提案はしばしば、それらは生産に損害を与えるものであるという反対論に出会った。──それによれば、その損害はきわめて大きく、ついには、移転を受ける人々でさえ以前よりもいっそう貧しくなるということであった。とりわけ、おそれられていたことは、貯蓄、したがって資本設備の形成が甚だしく阻止されるであろうということ[154]であった。現在においては、この種の考慮に対しては、はるかにわずかな注意しか払われていない。それは、一部分は、男、女、ならびに子供の力を適正な食料と住宅とによって築き上げることは少なくとも、物的資本の建造と同じように生産的な投資となりうるということがいっそう広く認められてきたからであるが、また一部分は、他のもろもろの理由からである。古い見解に対するこのような反動は、疑いもなく、正当化される。しかしながら、この反動は行きすぎとなることがある。過去における経済的進歩は多く冒険的企業に負うていた。そこでは人々は安全のために行動するよりはむしろ可能的な大成功のために危険を引受ける用意をもっていた。国家が、たとえば、急角度に累進的な所得税によって高額所得から特別徴税を行うことは、成功した冒険家に対しても不成功に終わった冒険家に対してもともに、安全のために行動する人々に対するよりははるかに烈しい打撃となり、したがって果敢な企業を萎縮させることになる。ここに無視してはならない危険がある。(pp.153-4)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>杉本栄一、近代経済学の解明</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/093#tm1209948883</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/093</guid>
		<category>経済学</category>
		<pubDate>Mon, 05 May 2008 00:33:32 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<blockquote>
　しかし貨幣の数量が与えられるということは、一定の貨幣価値をもった貨幣の一定量が与えられるということにほかなりません。しかもこの貨幣の数量と貨幣価値とは、同時相関的に決まるのです。してみれば貨幣の数量が、何か技術的な関係で商品価格の世界の外部で決まり、それが与えられて始めて商品価格と取引数量と貨幣の価値とが決まる、というのは明かに背理です。したがって、貨幣の価値は、商品価格論の外で決まるのではないといわなければなりません。商品の価格というのは、貨幣の価値で測られた商品の価値なのです。この商品の価値が、一般的等価形態にあるところの特殊の商品、すなわち貨幣において表現され、価格という形態を受取るのです。したがって商品価格というのは、実は貨幣と商品との交換関係の内部で成立するものであり、商品と貨幣とが交換されるというのは、その両方が等量の価値をもっているからなのです。そしてこの価値がそもそも如何にしてきまるかということを明かにする理[197]論が、ほかならぬ価値論なのです。価格論と価値論とは、本来無関係な別の理論ではないのです。価値が価格から独立な、何か超経験的なあるものであるかの如くに速断する、ローザンヌ学派流の価値否定論は、価値の本来の意味を見誤ったものにすぎません。それは、本質としての価値と現象としての価格とを全然無関係なものとみる、機械的経験論の陥らざるをえない当然の誤謬なのです。われわれは商品と貨幣とを統一的に把握し、商品価格論と貨幣価値論とを総合的に理解しなければならないのです。ローザンヌ学派の経済学は、本来統一的総合的に理解せらるべき経済社会の全体認識に失敗しているといわなければなりません。(上巻、pp.196-7)<br>
</blockquote>

</div>

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<a href="http://www.mojimoji.org/adiary/0178" rel="nofollow">理論経済学の本質と主要内容</a> （MOJIMOJI.ORG） by モジモジ<br>
</div>
]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>キルケゴール、死にいたる病</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/091#tm1203349073</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/091</guid>
		<category>未分類</category>
		<pubDate>Mon, 18 Feb 2008 15:37:46 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　セーレン・キルケゴール『死にいたる病』、枡田啓三郎訳、ちくま学芸文庫。<br>
<blockquote>
……自己自身に関係し、自己自身であろうと欲するに際して、自己を置いた力のうちに透明に自己を基づける、と謡われているのである。わたしはこれを思い起こしてもらうようしばしば繰り返して注意をうながしてきたのであるが、この公式がまた信仰の定義でもある。[243]<br>
</blockquote>

</div>

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<div style="margin-left: 1em;">
</div>
]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>ニーチェ、この人を見よ</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/090#tm1203398702</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/090</guid>
		<category>未分類</category>
		<pubDate>Mon, 18 Feb 2008 14:50:57 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　ニーチェ『この人を見よ』、手塚富雄訳、岩波文庫。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/090#p1" name="p1"><span class="sanchor">■</span></a>なぜわたしはこんなに利発なのか</h3>
<blockquote>
　もう一つ別な自己防衛の機略は、できるだけ稀にしか反応しないこと、自分の「自由」、自分[66]のイニシアティヴをいわば取りはずされ、単なる反応薬になりさがるという憂目に会いそうな状況や関係から身をひくことだ。書物とのつきあいを例にとろう。つまりはただ書物を「ひっかきまわして検索する」ことだけしかしない学者は──並みの文献学者で日に約二百冊は扱わねばなるまい──しまいには、自分の頭でものを考える能力をまったくなくしてしまう。本をひっかきまわさなければ、考えられないのだ。彼が考えるとは、刺戟（──本から読んだ思想）に返答するということ──要するにただ反応するだけなのだ。こういう学者は、すでに他人が考えたことに然りや否を言うこと、つまり批評することに、その全力を使いはたしてしまって──彼自身はもはや考えない……自己防衛本能が、彼においては、ぐにゃぐにゃになってしまったのだ。そうでなければ、書物に抵抗するはずだ。学者──それは一種のデカダンだ。──わたしは自分の目で見て知っているが、天分あり、豊かで自由な素質をもつ人々が、三十代でもう「読書ですり切れ」、火花──つまり「思想」を発するためにはひとに擦ってもらわねばならないマッチになりさがっている。──一日のはじまる早朝、清新の気がみなぎって、自分の力も曙光と共にかがやいているのに、本を読むこと──それをわたしは悪徳と呼ぶ！──　──[65-66]<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/090#p2" name="p2"><span class="sanchor">■</span></a>なぜわたしはこんなによい本を書くのか</h3>
<blockquote>
……それだけにわたしは一つの説明をしておきたい。──結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできないのだ。体験上理解できないものに対しては、人は聞く耳ももたないのだ。[78]<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/090#p3" name="p3"><span class="sanchor">■</span></a>悲劇の誕生</h3>
<blockquote>
　わたしのこの出発は、この上なく注目に値するものである。わたしは、わたしのもっとも内奥の経験を表現すべく、歴史のもつ唯一の比喩と対応物を発見したのだ──わたしは、まさにこのことによって、ディオニュソス的なものという驚くべき現象を理解した最初の者となったのである。同様に、わたしがソクラテスをデカダンだと見抜いたことによって、次のことへの完全に明白な証明が与えられた。すなわち、わたしの心理学的把握の確かさは、どんな道徳病患者から攻撃されてもくつがえるものではない、ということへの証明である──つまり、道徳そのものをデカダンスの徴候としたことは、認識の歴史における革新であり、第一級の無比な発見なのである。わたしは、以上の二つの見解によって、オプティミズム対ペシミズムといったような、低脳者のあわれむべきおしゃべりを、どんなに高く飛び越えてしまったことか！──わたしがはじめて、本当に対立する二つのものを見いだしたのだ──すなわち、一方では、表面に出さぬ復讐心をいだいて生に逆らう退化しつつある本能（──キリスト教、ショーペンハウアーの哲学、ある意味ではプラトンの哲学がすでにそうであり、理想主義の全域はその典型的形式である）と、これに対するに他方では、あふれる豊かさから生まれたあの最高の肯定の方式、つまり、苦悩や罪、生[97]存におけるあらゆるいかがわしいものや異様なものに対してさえ留保なしに「然り」という態度、この二つのものの対立である……こうした窮極的な、この上なく喜びにあふれた、過剰なまでに意気盛んな生命肯定は、単に最高の洞察であるばかりでなく、これはまた、最深の洞察、真理と学問によって最も厳正に是認され、支持されている洞察なのである。およそ存在するものであるかぎり、何一つ排除してよいものはなく、何一つ無用なものはない──それどころか、キリスト教徒やその他のニヒリストたちがしりぞけた生存の諸側面は、価値の順位からいえば、デカダンス本能があえて是認し、善と呼んできたものより、無限に高い位階をもっているのである。このことを理解するには、勇気が必要であり、その勇気をもつ条件としては、ありあまる力が必要である。なぜなら、勇気が前進を敢行する度合いと力の量に正比例して、われわれは真理に近づいて行くのだから、真の認識、すなわち現実への肯定が強者にとってやむにやまれぬことであるのは、弱者にとって、現実に対する怯懦とそこからの逃避──つまり「理想」──がやむにやまれぬことであるのと、同じである。弱者は弱さからインスピレーションを受けて、そういう逃避をするのである……認識することは、弱者のなしうることではない。デカダンたちは、うそを必要とする──うそは彼らの自己保存のための要件の一つである。──単に「ディオニュソス的」という言葉を把握しているだけでなく、「ディオニュソス的」という言葉によって自分自身を把握[98]している者は、プラトンやキリスト教やショーペンハウアーを論破する必要を少しも感じない──彼の鼻はそれらのものが腐ってゆくにおいをかぎつけているのだから……[96-98]<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/090#p4" name="p4"><span class="sanchor">■</span></a>人間的な、あまりに人間的な</h3>
<blockquote>
　そのときわたしの本能は、断乎としてこれ以上譲歩をかさね、他に調子を合わせ、自分で自分を誤解するのをやめる態度を決定した。……病気が、わたしを徐々に助け出してくれたの[120]だ。病気のおかげで、わたしは決裂とか、暴力的で不快な手段とかは、いっさい取らずにすんだのである。わたしはそのころ、人からの好意は少しも失わず、かえって今まで以上に好意をうけることになったくらいだ。同様に、病気は、わたしの習慣のすべてを完全にひっくりかえしてしまう権利をわたしに与えた。病気はわたしに忘れることを許した。いや、それを命じた。病気から、わたしは、いやでも静かに寝ていること、何もしないでいること、待つこと、忍耐づよくしていることという贈り物を受けた……だがそれはつまり「考える」ということなのだ！……わたしの眼についてだけ言っても、それは紙魚の真似（ドイツ語でいえば文献学）の一切と縁を切った。わたしは「本」の世界から救い出された。わたしは、以後何年間か、もはや何も読まなかった──これは今までにわたしがわたしに与えた恩恵のうちの最大の恩恵である！あのいちばん底にひそんでいた自我──他の多くの自我の言うことに絶えず耳を傾けていなければならない（──つまりそれが読書といわれるのだ！）という重荷を負って、いわば土砂の下に埋まってしまい、声を失っていた自我が、しだいしだいに、おずおずと、ためらいがちに目をさました──そして、ついにそれはふたたび語りだしたのである。わたしはわたしの生涯のもっとも病弱でもっとも苦痛の多かったその頃ほど、わたしというものに幸福を感じたことはない。『曙光』、または『漂泊者とその影』などだけでも見てもらえば、この「わたし自身への復帰」がどのようなも[121]のであったかが理解されよう。それは最高級の快癒そのものであった！……肉体の快癒はその結果にすぎなかった。──[119-121]<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/090#p5" name="p5"><span class="sanchor">■</span></a>曙光</h3>
<blockquote>
　わたしの使命は、人類の最高の自覚の瞬間を用意すること、人類が過去をふりかえり、未来に目をはなち、偶然と僧侶どもの支配から脱して、「なにゆえに？」「なにをめざして？」という問いをはじめて全体として発する大いなる正午を用意することであるが──この使命は、必然的に次の洞察から生じてくるのである。すなわち、人類は現在自然に正しい道を歩んでいるのだという状態にあるのではない、人類は神的に統治されているのではけっしてない、人類にとってのもっとも神聖なもろもろの価値概念という名のもとに、否定本能、腐敗、デカダンス本能が誘惑的に力をふるってきたのだ、という洞察である。それゆえ、道徳的価値の素性を問うことは、[128]わたしにとっては第一級の問いなのだ。この問いは人類の未来を決定するものだからである。一切はつまるところの神の手によって統べられていると信ぜよ、聖書という一冊の本が人類の運命における神の導きと知恵とについて究極の安心を与えてくれるのだと信ぜよ、という要求は、それを現実の状況に復元してみれば、その反対のあわれむべき真実、すなわち、人類はこれまで最悪な手によって掴まれていたのであり、出来そこないども、腹黒い復習の念にもえる者たち、いわゆる「聖者」ら、こういう世界誹謗者と人間侮辱者によって支配されてきたのだという真実を、明るみに出すまいとする意志にほかならないのだ。僧侶（内密の僧侶である哲学者を含めて）が一定の宗教団体の内部においてだけではなく、広く一般に支配権を握っており、デカダンス道徳、すなわち終末への意志が、道徳そのものとして通用していること、このことの証拠となる決定的な徴候は、非利己的な人間には絶対的な価値がみとめられ、利己的な人間には至るところで敵意が示されるという事実である。この点でわたしと見解が一致しない者を、わたしはもう病気に感染してしまったものと見なす……だがわたしと見解が一致しないのは全世界なのだ。……生理学者にとっては、こういう反対の価値観は、自明のことであって、なんの疑いの余地もあるまい。有機体の内部で、どんなに取るに足らぬ器官でも、その自己保存、力の補給、その「利己主義」を完全な確実さで遂行することを、ほんの少しでも怠るならば、その有機体全体が退化するのだ。[129]生理学者は、その退化した部分の切除を要求する。彼は、退化した部分と連帯関係をもつことを一切拒絶する。それに同情することなど、思いもよらない。ところが、僧侶が欲することは、まさに全体の退化、人類の退化にほかならない。つまり僧侶は、退化してゆくもの、腐ってゆくものの保存をはかり──その骨折賃として人類を支配するのである。……あの嘘の諸概念、すなわち「魂」、「精神」、「自由意志」、「神」などという道徳の補助概念には、人類を生理的にだめにしてしまうという意味のほかに、どんな意味をもつというのか？……自己保存ということ、肉体、つまり生の力を高めることを真剣に考えず、萎黄病から理想を、肉体の軽蔑から「魂の救い」をでっちあげようとするなら、それはデカダンスへの処方でなくて何であろう？──重力の喪失、自然な本能の否定、一言でいえば「自己喪失」──これがこれまで道徳と呼ばれてきたのだ。……『曙光』によってわたしははじめて、この自己滅却の道徳に戦いを挑んだのだ。──[127-129]<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/090#p6" name="p6"><span class="sanchor">■</span></a>ツァラトゥストラ</h3>
<blockquote>
……ツァラトゥストラという典型における心理学的問題は、これまで人々から然りと言われてきた一切のものにたいして未曾有の程度で否と言い否を行なう者が、それにもかかわらず、どうして否定精神の正反対になりうるかということである。もっとも重い運命、使命という宿命を負うている精神が、それにもかかわらず、どうして、もっとも軽快な、もっともこの世を離れた精神たりうるか──どうしてツァラトゥストラが一個の舞踏者でありうるか──ということである。現実にたいしてもっとも苛烈な、もっとも恐ろしい洞察をしており、「もっとも深淵的な思想」を思想した者が、それにもかかわらず、どうしてそれを生存に対して異議を唱える根拠にしないのか、そしてその生存の永劫回帰に対してさ[150]え異議を唱えないでいられるのか、──異議を唱えるどころではない、さらに進んで、自分があらゆる事物に対する永遠の然りであり、「巨大な無際限の肯定と承認」であるということの根拠を、どうしてそこに見いだしているのか、という問題である……ツァラトゥストラは言っている「どんな深淵の中へも、わたしは、わたしの祝福する然りのことばを運ぶ」と……。しかしこれもまたディオニュソスの概念そのものなのである。[149-150]<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/090#p7" name="p7"><span class="sanchor">■</span></a>なぜわたしは一個の運命であるのか</h3>
<blockquote>
　結局、わたしの使用する反道徳家という語に含まれているのは、二つの否定である。まず第一に、わたしは、従来最高のタイプと認められてきた人間、すなわち善人、善意の人間、善行の人間[184]を否定する。第二には、道徳の一種にすぎないのに道徳そのものとして通用して支配権を獲得するに至ったあのデカダンス道徳、はっきりいうならキリスト教道徳、それをわたしは否定する。この第二の抗議の方を、より決定的なものと見なすことが許されるだろう。なぜなら、善意や好意を過大評価することは、大観すれば、わたしにはすでにデカダンスの結果であり、弱さの徴候であり、上昇し肯定する生と相容れぬものであると思われるからである。肯定には、否定し、そして破壊することが条件なのである。──だが、さしあたりわたしは善人の心理学に足をとめよう。ある型の人間がどれだけの価値をもつかを評価するためには、その生存を維持するためにどれだけの経費がかかるかを計算してみなければならぬ──その人間の生存条件を知らねばならぬ。ところで善人どもの生存条件は嘘である、──言いかえれば、現実というものが根本においてどういうふうにできているかを絶対に見ようとしないこと。すなわち、現実というものは、いつでも善意的本能をそそのかし、招きよせるようなものではないこと、まして、近視眼的な、お人好しな人間が出しゃばって手を出すことにいつも甘い顔を見せるようなものではないことを、絶対に見ようとしないことである。あらゆる種類の困窮状態をおしなべて故障と見なし、除去せねばならぬものと見なすのは、飛びきりの愚かさであり、大きく言えば、真に不祥な結果を生み出すものであり、運命的な愚かさというべきである──、その愚かさ加減は、たとえば貧民に対する[185]同情から、悪い天気をこの世からなくそうとする意志と、ほとんど選ぶところがない。……大きい「全体」の経済からみれば、現実における種々の恐るべきこと（情熱における、欲望における、権力への意志における）の方が、小さな幸福のあの形式、いわゆる「善意」などというものより、測り知れぬほどに必要なのである。それどころか、善意というものは本能の欺瞞から来ているのだから、そもそもこれに全体の中の一つの場所を許すには、よほど腹の虫を殺すことが必要である。いずれわたしは、楽天的人間どもの産物である楽天主義というものが、全歴史に及ぼした度を越えて気味のわるい諸結果を、証明する大きな機会をもつであろう。ツァラトゥストラは、楽天家は厭世家と同様にデカダンであり、おそらくはいっそう有害であることを掴んだ最初の人間であるが、こう言っている。「善人はけっして真実を語らない。いつわりの岸べといつわりの安全とを、善い者たちは君たちに教えていたのだ。君たちは、善い者たちの嘘のなかで生まれ、それにかくまわれていたのだ。一切は善い者たちによって、徹底的にいつわられ、曲げられている。」と。世界は幸いなことに、ただ善良であるだけの畜群がそこでちっぽけな幸福を見いだそうとするような、そんなけちけちした本能を見越して建てられてはいない。万人が「善人」に、畜群に、お人よしに、善意的なものに、「美しき魂」とならねばならないとか──もしくは、ハーバート・スペンサー氏の希望にかなうように、利他的にならねばならないと要求することは、[186]生存からその偉大な性格を奪うことにほかならない。人類を去勢して、あわれむべき宦官の状態に引き下げることにほかならない。──しかもこれがいままで試みられてきたことなのだ！……道徳と呼ばれていたことなのだ！……この意味で、ツァラトゥストラは、善人たちを、あるいは「末人」と呼び、あるいは「終末の開始」と呼ぶのである。何よりも、彼は善人たちをもっとも有害な人種と感ずる。それは、彼らが真理を犠牲にし、また未来を犠牲にして、おのれの生存をつらぬくからである。[184-186]<br>
</blockquote>
<blockquote>
……次のことがわたしの洞察である。すなわち、人類の教師、指導者、それから全神学者は、一人残ら[192]ずデカダンでもあったのだ。だから生に有害なものに一切の価値を認めるという価値転換が生じたのだ、だから道徳が生じたのだ。……道徳の定義、道徳とは──生に復讐しようとする底意をもち──そしてそれに成功したデカダンたちの病的性癖である。わたしはこの定義を尊重する。──[191-192]<br>
</blockquote>
<blockquote>
……最後に──これがもっとも恐るべきことだが──善人という概念においては、すべての弱者、病人、出来そこない、自分自身を悩みとしている者、つまり破滅してしかるべき一切のものが、支持され、──淘汰の法則がはばまれ、誇りに充ちた出来のよい人間、肯定する人間、未来を確信し、未来を保証する人間に対する否定が、理想として祭り上げられ──そういう立派な人間がいまや悪人と呼ばれることになる……しかもこれらのこと一切が道徳として信奉されたのだ！──このけがらわしいものを踏みくだけ！──　──[194]<br>
</blockquote>

</div>

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</div>
]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>オッリペッカ・ヘイノネン、「学力世界一」がもたらすもの</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/088#tm1198224737</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/088</guid>
		<category>経済学::教育政策</category>
		<pubDate>Fri, 21 Dec 2007 08:12:17 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　オッリペッカ・ヘイノネン＋佐藤学『オッリペッカ・ヘイノネン　「学力世界一」がもたらすもの（NHK未来への提言）』、NHK出版、2007年。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/088#1" name="1"><span class="sanchor">■</span></a>Chapter1　学力世界一をつくった教育改革</h3>
<blockquote>
ヘイノネン　多くの国で中央政府の統制が強い理由もわからなくはありません。今は誰もが人材と教育制度こそが核心だと見ているからです。それを機能させるためには、システムをしっかりコントロールしなければなりません。しかし、圧力がそこに加わると、うまく機能しないのです。<br>
　なぜなら教育には自由が欠かせないからです。学ぶということは大変繊細で、個人的で、また非常に複雑な事柄です。わたしたちは、それぞれの現場、つまり生徒、教師そして校長に任せるべきであり、阻害してはならないのです。というのも、最も重要なのはモチベーションだからです。教師の意欲、生徒の学習意欲、それこそが核心なのです。厳しく管理すれば、モチベーションが失われ、結局何もかもがだめになってしまうのです。<br>
　そうすると数値やテストを中心に据えた状況ができあがるわけですが、数学のように正しい答えを出せば終わりということではないのです。<br>
　問題は、そこに到達したときに何があるか、何が見えてくるかということです。最終的な答えではなく、最終的な答えを導き出すまでの過程こそが大切なのです。(pp.26-7)<br>
</blockquote>
<blockquote>
佐藤　教師が政府を信用しない、そして政府も教師を信用しないといった事態は国にとってきわめて深刻な問題だと思います。でもあなたの政策はその壁を取り払い、政府と教師の間の溝を埋めるものとなりましたね。<br>
ヘイノネン　ええ、そのとおりです。わたしは、教育制度というものは急転換して無理やり法案を通すようなことはできないと思っています。何よりもまず関係者を巻き込む必要があります。彼らにそれが正しい方向だと納得させ、彼ら自身が動きはじめなければなりません。……<br>
佐藤　あなたの政策への教師や校長、教育行政者の反応はいかがでしたか。<br>
ヘイノネン　政策はまさに彼らが望んでいたものだったと思います。わたしは教員組合、校長の組織、自治体の組織と非常に密に議論をしました。そうしたところ、彼らは政策を受け入れる準備ができていると言ったのです。<br>
　また、保護者の側からも教育制度にもっと柔軟性をもたせてほしいという明確な意見がありました。それだけでなく、公教育制度をもっと柔軟にしなければ私立学校を新たにつくる動きが高まる危険性がありました。一方ではそのような圧力もあったのです。フィンランドでは、私立学校と公立学校に差が出てしまうようなシステムをつくらないことを大切にしています。繰り返しになりますが、機会の平等が阻害されるからです。そうした理由からすべてを同じラインに立たせるために、公教育制度に柔軟性をもたせることにしたのです。(pp.29-30)<br>
</blockquote>
<blockquote>
佐藤　改革における保護者との協調、保護者の参加についてはいかがお考えですか。<br>
ヘイノネン　わたしたちは、自治体、学校、教師の裁量を拡大すると同時に、学校がより地域に開かれたものとなるように、彼らの現場で議論を重ねてほしいと思ったのです。家庭、保護者と学校がもっと協力するようにと。子どもを育てる責任は両方にあるからです。……(pp.31-2)<br>
</blockquote>
<blockquote>
ヘイノネン　必要なのは二つの要素、信頼とある種の柔軟性です。繰り返しますが、どちらも欠かすことができないのです。社会への信頼がなければ柔軟性も生まれません。わたしが強く思うのは、目まぐるしく変化する世界で将来の政策を決定していくためには、システム自体にある程度の柔軟性がなければならない、ということです。ですが、システムの内に信頼感、信頼を基盤とする文化を構築できなければ、柔軟性も生まれないのです。(p.33)<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/088#2" name="2"><span class="sanchor">■</span></a>Chapter2　「考える力」の育成と生涯学習</h3>
<blockquote>
ヘイノネン　当時、すでにわたしたちは誰ひとり未来が予測できない、そんな時代が来ていると実感していました。これまでの教育がそうであったように、特定の仕事や職業に就くためにひとりひとりを教育するという時代ではなくなっていたのです。“未来がわからない世界”、人びとが一生の間に何度も仕事を変える必要が出てくるような、そんな時代です。<br>
　とりわけ、今日の世界では何もかもが目まぐるしく変わり、周囲に膨大な量の情報があふれています。変化に適応し生き抜くためには自分で自分を導いていかなければなりません。自分自身を知らなければなりませんし、自分の内面から新しいことを学ぼうというモチベーションが生まれなければなりません。<br>
　人びとが自ら学ぶ力が必要なのです。……(p.42)<br>
</blockquote>
<blockquote>
佐藤　フィンランドの人びとは本をたくさん読むと聞いています。ある調査によると、国民ひとりあたり１年間に図書館で借りる本は平均20冊以上にのぼるそうですね。日本人の４倍です。(pp.45-6)<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/088#3" name="3"><span class="sanchor">■</span></a>Chapter3　機会の平等と質の向上</h3>
<blockquote>
ヘイノネン　わたしたちは教育の機会の平等がなければ、教育の質の向上は不可能だと考えています。教育を受ける機会の平等はすべての前提です。平等を保障する制度は、わたしたちフィンランドの教育制度の礎となる最も大切な原則です。質と機会の平等は決して矛盾するものではなく、片方がもう片方を可能にするのです。(p.61)<br>
</blockquote>
<blockquote>
佐藤　フィンランドの学校には能力別学級編成や学校の序列はありませんね。これは日本はじめアジアの人にとっては夢です。そうした教育制度をどうやって推進されたのでしょうか。<br>
ヘイノネン　われわれにとって、この出発点は自明のことです。……そのためには、それをどうやって保障するかが問題なのです。<br>
　当然ながらひとつには、それぞれの教育段階で、全国的に守られるある種のスタンダードがあるということ。ですが、それよりもっと重要なのは教師の力量だと思います。<br>
　教室での出来事に責任があるのは教師だからです。教員養成の教育が大学院レベルであり、学習の現場を指導する教師の能力が全国的に高いということ、これはとても重要だと思います。<br>
　もうひとつわたしが取り上げたいのは、フィンランドの学習教材の質の高さです。伝統的に非常に質の高い教科書やそのほかの教材があるのです。そしてこれもやはり力量のある教師と切り離せません。それは、ベテランの教師たちが教科書をつくっているからです。フィンランドには教材の検定制度や規制がありませんが、以前から高水準の教材を自主的に管理し生み出すシステムがあります。これは非常に重要なことです。<br>
　こうしたことがすべての生徒に教育平等の機会を保障するのです。そして、問題なく次のレベルに進めるようにすることについてですが、われわれはこの問題を逆から考えました。どうやって誰ひとり落ちこぼれず、誰もがついていけるようにするか。ここで重要なのは、人はそれぞれ違うということを理解することです。学習の仕方も人それぞれなのです。学習意欲がどこから湧くかについても、人それぞれ違います。さまざまなアプローチの仕方を考慮すべきです。<br>
　ですから、誰もがついていけるようにするという基本原則と同時に、教育システムにはある程度柔軟性がなければなりません。<br>
佐藤　フィンランドの学校を訪問するたびに、それぞれの学校が落ちこぼれを出さないよう学力の底上げを図っているのには大変感銘を受けます。福祉国家の教育政策についてのあなたのお考えは。<br>
ヘイノネン　「ひとりの子どもを育てるにはひとつの村が必要」という格言がありますが、まさにそのとおりです。フィンランドでは、社会全体で教育制度を支えているのです。<br>
　どうやって人びとが互いを思いやる社会を築くべきか。人はそれぞれ違うということを理解して、自分と異なる人を受け入れ、コミュニケーションをとることができる、そのことは自分の強みになると気づくべきです。他者を理解するには自分を知らなければなりません。ですから、自分で自分の人生を切りひらいているというある種の自尊心がなければならないわけです。これは、今日よく見られるナルシスト的な態度を言っているのではありません。極度に自己中心的な態度のことではないのです。<br>
　自分に価値があるということを知らなければなりません。そのことを通じて、ほかの人もまた、それぞれに価値があるということを理解し、他者と協力することができるのです。これもまた教育の役目です。<br>
　どうやって自分を知り、他者の価値を知り、他人を傷つけたり他人を脅威と見なすような自己中心的な人間にならないようにするか。これこそが福祉国家のベースになるのです。(pp.62-5)<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/088#c4" name="c4"><span class="sanchor">■</span></a>コラム4　教育の優秀性──わたしの見聞に基づいて──</h3>
<ol>
	<li>学校と学級の規模が小さい。</li>
	<li>授業と学びの様式、一斉授業よりもプロジェクト型のカリキュラム単元と協同学習。</li>
	<li>遅れた生徒に対する手厚い指導。</li>
</ol>
<blockquote>
……フィンランドでは子どもの居住地から5キロ以内に学校を建設することを法律で定めている。3キロ以内の子どもはスクールバス、3キロ以上5キロ以内の子どもはタクシー（公費負担）で通学している。人口は520万人だが、国土は日本と同程度の国である。必然的に学校の規模は小さくなる。小学校は平均して70名程度、中学校も高校も150名程度である。どの学校も日本の学校とくらべて規模が小さい。そしてヨーロッパ型の学校であるから校長も授業を担当し学級を担任する。したがって、都市郊外もしくは田舎の学校だと、小学校は60名程度の子どもと校長をふくめて教師が3～4人、それに給食の職員が1人という小さな学校が一般的である。中学校や高校も生徒が150人程度、教師が10～12人程度、それに給食の職員が2～3人にスクール・カウンセラー1人というのが一般的である。高校は中学校に付設された学校が多い。したがって学級の規模も小さい。小学校の一学級は20名程度、中学校と高校の一学級の生徒数は16名が標準である。小さな規模の学校と学級という要素は「小さなコミュニティ」としての学校を実現している。(p.66)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　最後に、フィンランド教育の優秀性が、1992年以降の未曾有の経済不況の克服の過程で達成されたことに言及しておきたい。ベルリンの壁の崩壊とソビエト連邦の崩壊によって深刻な経済的ダメージを受けたフィンランドは失業率20％という深刻な状況を迎えていた。この深刻な事態において、フィンランド政府が推進した改革は、国家公務員の増加による失業者の救済であり、知識社会の到来を見通した教育改革の推進であった。……(p.68)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>池田清彦、環境問題のウソ</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/087#tm1198071175</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/087</guid>
		<category>経済学::環境政策</category>
		<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 00:09:23 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　池田清彦『環境問題のウソ』、ちくまプリマー新書、2006年。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/087#1" name="1"><span class="sanchor">■</span></a>第一章　地球温暖化問題のウソとホント</h3>
<blockquote>
　経済成長に伴ってＣＯ２の排出量が増えるのは化石燃料が代替燃料より安価だからだ。太陽エネルギーや風力エネルギーのコストが化石燃料より安くなれば、カネやタイコをたたかなくともＣＯ２の排出量は減少する。京都議定書は炭素排出量の制限ばかりに目を向けており、これは現在の炭素の排出量は減らすことはできるが、経済成長率を減速させる。ロンボルグの意見では、重要なのは代替エネルギーの開発資金をケタ違いに増やして、代替燃料の相対的コストをなるべく早く化石燃料以下にすることだ。すでに見たようにＣＯ２の排出量を今すぐにコントロールしなくとも壊滅的なことにはならない。<br>
……核融合は後始末に金がかかり[48]過ぎて低コストで済むとは思えないが、太陽光や風力については本当だろう。(pp.47-8)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>奥村宏、株式会社に社会的責任はあるか</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/086#tm1197876397</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/086</guid>
		<category>経済学</category>
		<pubDate>Mon, 17 Dec 2007 07:26:37 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　奥村宏『株式会社に社会的責任はあるか』、岩波書店、2006年。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/086#c" name="c"><span class="sanchor">■</span></a>目次</h3>
<ul>
	<li>第一章　流行する「企業の社会的責任」論</li>
	<li>第二章　株式会社の責任</li>
	<li>第三章　無責任会社</li>
	<li>第四章　法人とは何か</li>
	<li>第五章　責任とは何か</li>
	<li>第六章　企業犯罪の責任</li>
	<li>第七章　経営者の責任</li>
	<li>第八章　企業の社会貢献</li>
	<li>第九章　株式会社の危機と社会的責任</li>
	<li>第一〇章　責任ある企業にするために</li>
</ul>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/086#n" name="n"><span class="sanchor">■</span></a>ノート</h3>
<blockquote>
　戦争責任についていうと、これは戦争をした国家の責任は国民が負うということである。そうだとすれば、企業＝会社の社会的責任はいったい誰が負うのであろうか。国家の責任は国民が負わなければならないとしたら、株式会社の責任は株主が負わなければならないということになるのだろうか。<br>
　もし株主資本主義者たちがいうように、「会社は株主のものである」としたら、会社が行ったことについての責任は株主がとらなければならないということになる。しかし公害にせよ薬害にせよ、その他多くの企業犯罪、あるいはさまざまな企業不祥事で株主の責任を問題にした人はいない。株式会社では株主全員が有限責任であり、株主は持っている株券はタダになるかもしれないが、それ以上の責任は負わなくてよいということになっている。そのため企業犯罪や企業不祥事について株主の責任を問題にする人はいない。<br>
　では誰が責任をとるのか。公害や薬害などの責任は直接にそれにかかわった担当者の責任が問われる。しかし担当者は会社の仕事の一環としてやったのであり、それは個人の行為ではない。では経営者はどうか。経営者は担当者がやったことについて知っていれば責任を問われるかもしれないが、知らなかったといえば責任を問われない。<br>
　そこで法人としての会社が行ったことだから、会社が責任をとるべきだという議論がでてくる。「会[96]社それ自体」が責任をとるべきだという議論である。……<br>
　しかし「会社それ自体」が責任をとることができるのだろうか。先のヤスパースの講義とからめていうと、会社は刑法に違反した場合の責任に問われるのだろうか。あとでみるように、日本では法人である会社には刑事上の責任はないということになっている。水俣病でも薬害エイズ事件でも、法人である会社は刑事上はなんら罰せられていない。<br>
　そのような会社に政治的責任や道徳的責任、形而上的責任を問うことはできない。にもかかわらず社会的責任だけはあるということができるのか。逆にいえば、もし会社に社会的責任があるというのであれば、まず刑事上の責任をとるのが先決ではないか。(pp.95-6)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　労働組合が賃金差別やサービス残業などの問題に関して、会社側に対して「企業の社会的責任を果せ」と要求することはごく当然のことのように考えられ、現実にそういうことを要求する労働組合も増えている。しかし、これらの問題はすべて労働基準法などの法律に反していることであり、それに対しては、労働組合は「法律を守れ」と会社側に要求すべきものであり、それを「企業の社会的責任」という、あいまいな形にするのは、問題の本質をはぐらかすことになるのではないか。<br>
　労働組合はもちろん、従業員にしても、あるいは一般の消費者にしても、企業に対して「法律を守れ」と要求し、そして法律が従業員や消費者を守っていないのであれば、「法律を改正せよ」と要求すべきである。<br>
　一方で、政府は規制緩和で、企業に対する規制をゆるくしたり、脱法行為を放任する。他方で、企業は法律や規制を「企業の社会的責任」という、あいまいな次元の問題にすることで規制を逃れる。……(p.201)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　これまで本書では何回も、株式会社が大きくなりすぎたために、無責任になっているのだということを指摘してきた。そこで経営者あるいは代表者が責任を持てるようにするためには、大企業を解体して、できるだけ小さくすることが必要であるという結論に達する。……(p.209)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>奥村宏、「まっとうな会社」とは何か</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/085#tm1197387678</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/085</guid>
		<category>経済学</category>
		<pubDate>Tue, 11 Dec 2007 15:41:18 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　奥村宏『「まっとうな会社」とは何か　持続可能な会社の条件』、太田出版、2006年。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/085#5" name="5"><span class="sanchor">■</span></a>課題５　会社は株主のものか</h3>
<blockquote>
　そこで岩井<span class="footnote"><a title="岩井克人。" href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/085#fn1" name="n1">*1</a></span>に欠けているのは、株式会社の矛盾という視点、株式会社が危機に直面しているという認識である。このため一九世紀の法人論争に戻って、神学論争を再開しようとしているのである。(p.67)<br>
</blockquote>
</div>
<div class="footnote">
	<p class="footnote"><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/085#n1" name="fn1">*1</a> : 岩井克人。</p>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/085#15" name="15"><span class="sanchor">■</span></a>課題１５　バブル経済</h3>
<blockquote>
　では、なぜ一九七〇年代なかばにバブルが発生したのか。これについて私は一九七九年に出した『株価はこうして決まる』（ダイヤモンド社、のちに『株価のからくり』という題で社会思想社の現代教養文庫から出ている）で、バブルという言葉こそ使っていないが、基本的な構造について次のように書いている。<br>
　一九七〇年代に株式所有の法人化が進んだ結果、市場に出回る株式が少なくなった。株式所有の法人化が進むと、株価は利潤証券として買われるのではなく、支配証券として買われ、配当利回りや株価収益率を無視して高くなる。<br>
　そして株式所有の法人化によって市場に出回る株式が少なくなると、需給関係がコントロールされることによって株価が高くなる。<br>
　その株高を利用して時価発行増資などのエクイティ・ファイナンスが行われるが、そのために発行会社は株価を高くしようとしてさらに安定株主工作を進め、株式所有の法人化が進む。<br>
　このように株式所有の法人化こそが株価のバブルを作り出した原因であると主張したのである。同時に、このメカニズムはいずれ壊れる。なぜなら、エクイティ・ファイナンスをするということは株式を発行するということだから、一方で安定株主工作によって市場から株式を吸い上げながら、他方でエクイティ・ファイナンスで株式を供給していけば、いずれバランスが崩れて過大発行になり株価は下落する。それがいつか、ということはわからないが、株高の構造自体がこのような内部矛盾をはらむもので[192]ある、ということを指摘した。<br>
　果たせるかな、一九九〇年一月から、この矛盾が爆発して株価は暴落し、バブルがはじけたのである。<br>
<br>
<br>
　ところが、私のこのような主張は全く取り入れられず、その後はプラザ合意以後、日本銀行が金融をゆるめたからバブルが発生したのだというのが通説になってしまった。金融がゆるんだために余ったカネが土地や株に向かったからバブルが発生した、というのであれば、余ったカネは一般の商品にも向かってインフレになるはずだが、そうはならなかったのはなぜか、ということが説明できないではないか。(pp.191-2)<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/085#18" name="18"><span class="sanchor">■</span></a>課題１８　新しい企業を求めて</h3>
<h4><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/085#18.1" name="18.1" class="linkall"><span class="sanchor"></span>一、モンドラゴン</a></h4>
<h4><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/085#18.2" name="18.2" class="linkall"><span class="sanchor"></span>二、「第三のイタリア」</a></h4>
<h4><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/085#18.3" name="18.3" class="linkall"><span class="sanchor"></span>三、ＮＰＯと協同組合</a></h4>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>平井玄、ミッキーマウスのプロレタリア宣言</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/084#tm1197426920</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/084</guid>
		<category>未分類</category>
		<pubDate>Mon, 10 Dec 2007 14:43:54 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』、太田出版、2005年。<br>
<blockquote>
　ここに、ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』に対するもう一つの読み方が呼び戻される。二〇世紀の青年たちを鼓舞し勇躍させ、生死を顧みない闘いへ駆り立ててきた暴力革命の思想について、ジャック・デリダが一つの大きな判断を下したのが『法の力』におけるその読解だったことは、すでに全世界に知られていることだと思う。一切の制度的な暴力を廃し、地の底から湧き上がるような虐げられた者の反抗の暴力が帯びる滅罪的な力を信じてベンヤミンが呼び込んだ「神的暴力」は、結局のところホロコーストに通じていたのではないか──というデリダの結論は、私たちのすべてを震撼させたのである。<br>
　しかし、デリダがあえて（おそらく）触れなかったもう一つの『暴力批判論』がある。つまり神の怒りとしてのメシアニズムではなく、資本主義の生産を切断し、他の生産を開始する行為としてのプロレタリア・ゼネストのことである。権力奪取へ向かったボルシェヴィキと違って「生産」を重視したジョルジュ・ソレルの『暴力論』を高く評価するベンヤミン。そのもう一つの文脈を、いま一度注意深く現在の生産と労働の場面に引きよせて読み直すべき時期が来ている。(pp.127-8)<br>
</blockquote>
<br>
　耳塚寛明「誰がフリーターになるのか」、『世界』二〇〇三年二月号。<br>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>濱口桂一郎、生涯を通じたいい仕事</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/083#tm1197295359</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/083</guid>
		<category>経済学::労働政策</category>
		<pubDate>Mon, 10 Dec 2007 14:02:39 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　濱口桂一郎「生涯を通じたいい仕事　福祉社会のコア」、2007年、『福祉ガバナンス宣言　市場と国家を超えて』所収。<br>
<blockquote>
　最後に、労働政策であれ、社会保障政策であれ、男女労働者の運命に関わる政治的決定が彼らの代表のいないところで決められるということはあってはならない。内閣府の経済財政諮問会議は、民間委員として経営者二名、学者二名を有するだけである。そこにはそれによって最も大きな影響を被る人々の代表はいない。ＩＬＯの三者構成原則が改めて確認される必要がある。……<br>
　とはいえ、労働組合が大企業の男性正社員の利益代表に過ぎないと見なされるならば、その正統性に疑問符が付けられる。中小企業労働者の、女性労働者の、そして何より多くの非正規労働者たちの利益を代表しているのは労働組合なのか。連合は本当にステークホルダーたちの代表なのか。連合はこれに明確にイエスと答えなければならない立場にある。現状に安住しているわけにはいかないのだ。(pp.62-3)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>福田誠治、競争やめたら学力世界一</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/082#tm1197209519</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/082</guid>
		<category>経済学::教育政策</category>
		<pubDate>Sun, 09 Dec 2007 14:11:04 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　福田誠治『競争やめたら学力世界一　フィンランド教育の成功』、朝日新聞社、2006年。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/082#a" name="a"><span class="sanchor">■</span></a>評価と選択</h3>
<blockquote>
　大学入学資格試験の評点は、相対評価でつけられる。段階別に、七（五％）、六（一五％）、五（二〇％）、四（二四％）、三（二〇％）、二（一一％）、〇（五％）と規定されている。こんな数字が出てくるのなら競走ではないか、とまたまた筆者は悩んでしまう。<br>
　二〇〇五年一〇月一三日、フィンランドのほとんどの教師が参加するフィンランド教育組合での筆者とのやりとりを紹介しよう。……<br>
　「成績がつくのなら、できの良い高校、できの悪い高校が分かるではないか」<br>
　「今年、テレビ局が独自に調査して、高校別の大学入学資格試験の成績を報道した。教育省はそれが事実であるとも、事実でないともコメントせず無視した。国民の誰も騒いでいない」<br>
　「点数の高い高校に受験生が殺到するのではないか」<br>
　「それは、他人の点数だ」<br>
　「……（唖然として、ことばが出ない。他人のせいにするなということか？）……」<br>
　「しかも平均点だ。英語と数学の平均点を出して、何が出てくるのか。自分が何を学びたいかが重要だろう」<br>
　「……」<br>
　「そのうえ、八科目勉強して四科目受けたのか、四科目だけ勉強して四科目受けたのか条件も違う。数学に力を入れている高校はあるが、数学のできの良い学校とは限らない。できが悪いから力を入れるのだし。平均点の高いところに行っても、勉強するのは自分だろう」<br>
　「でも、少しでも条件の良いところに行けば、勉強もやりやすいのではないか？」<br>
　「どこでも学べるようになっている。これは生徒本人の問題だ」<br>
　彼女たちとの会話は、こんな具合だ。確かに、学ぶのは本人であって他人の点数は基本的には問題ではない。しかもフィンランドの試験問題は記述式なので、単なるトレーニングだけでは点は上がらない。さらに、点の取れそうな科目を選ぶのではなく、将来の職業に必要な科目を選ぶわけで、目標は実力がつくことであり点数をとることではないわけだ。こう解釈しても、筆者にはなかなか納得がいかないのだが、フィンランドでは社会全体がこの論理で納得して動いているのだ。(pp.71-2)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>小塩隆士、教育を経済学で考える</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/081#tm1197275991</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/081</guid>
		<category>経済学::教育政策</category>
		<pubDate>Thu, 06 Dec 2007 00:19:29 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　小塩隆士『教育を経済学で考える』、日本評論社、2003年。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/081#c1" name="c1"><span class="sanchor">■</span></a>第１章　教育への経済学的視点</h3>
<blockquote>
　とりわけ本書が意識的に取り上げるのは、前述のような教育を受けることそのものの意義と同時に、教育の「影」の部分である。教育は悲しいかな、子どもの能力差を浮き彫りにしていくという特徴を持っている。……(p.12)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　その議論をさらに進めると、教育はすべての者を均等に幸せにするわけではないという悲しい結論にたどり着く。能力のある者は教育を受けることによってますますその能力を発揮し、将来、高[14]い確率で高い賃金を得るようになるだろう。その一方で、能力の劣る者は、たしかに教育を受けることによって生産性は上がるものの、能力のある者との賃金格差がむしろ拡大してしまうかもしれない。それを考えると、教育に対する評価はきわめて難しくなる。(pp.l3-4)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　経済学にはさまざまな評価基準があるが、そのうち最も代表的なものは、「効率性」と「公平性」という二つの観点からの評価基準である。効率性とは、限られた資源がどこまで無駄なく（＝効率よく）配分されているか、という観点である。日常的には、生産性を上げるにはどうすればよいか、コストはどこまで削減できるか、経済成長率を高めるにはどうすればよいか、という言い方にこの効率性の考え方が現れている。<br>
　一方、公平性とは、人々の経済的な幸せや所得をめぐる格差がなるべく小さいことを望ましいとする観点である。平均的に所得水準が高くても、貧富の差が大きい社会はこの公平性の観点から高い評価が得られない。経済学はしばしば「生産性やコストだけを問題にする」と批判されるが、公平性の観点からもモノを考えていることを知っておいてほしい。そして、効率性と公平性はトレードオフ（二律背反）の関係にあることが多く、両者の折り合いをどこでつけるかが経済学の重要なテーマとなっている。ただし、公平性は他の学問領域でも結構登場するが、効率性をきちんと意識した議論をするのは経済学ぐらいなので、経済学は前述のような不当な批判を受けるという、はなはだ損な立場にある。(p.14)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　世の中に、勉強が好きな人はどれくらいいるのだろうか。筆者は人にモノを教えることを生業としているくらいだから、勉強するのは昔から嫌いなほうではなかった。しかし、世の中のほとんどの人は勉強が嫌いである。何の役に立つのか分からない英単語なんか覚えるより、テレビゲームで遊ぶほうが楽しいと考えている中学生のほうがはるかに多いだろう。それを実行に移してい[16]る者も少なくない。しかし、学校には毎日、通わなくてはならない。サボると学校から呼び出しを食らう。教育には、強制力が伴う。むりやり受けさせられるという面がある。(pp.15-6)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　このバウチャー制度については、まだ理論的にも実証的にもその効果が明確にされておらず、ただちに実行に移すのは危険だというのが筆者の考え方である。しかし、教育サービスの供給と需要の両面で選択肢を広げ、市場原理を働かせるという考え方には、一定の意義が認められる。また、その仕組みを推し進めると、教育職の公務員についても外部評価を行ったり、能力に応じて待遇に差をつけたりということになろう。民間企業でも一般化しつつある傾向が、教員の世界にも広がることが予想される。(p.30)<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/081#c4" name="c4"><span class="sanchor">■</span></a>第４章　教育はどこまで成果を挙げられるか</h3>
<h4><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/081#c4.1" name="c4.1" class="linkall"><span class="sanchor"></span>１　教育成果とは何か</a></h4>
<blockquote>
　筆者は、教育成果は、すべて数字で評価すべきもの、あるいは評価できるものだとは思わない。……<br>
　かといって、教育成果をまったく測定不能なものとみなしてしまい、外部の評価を拒否することははたして望ましいことだろうか。教育も批判を受けない聖域であってはならない。……(p.111)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　教育成果を検証することは、経済学から見て少なくとも次の二つの理由で重要である。<br>
　第一に、教育にはコストがかかっている。そのコストは、親が授業料として支払っている場合もあれば、世の中の多くの人が税金という形で支払っている場合もある。そうしたコストに見合っただけの成果を教育機関がきちんと挙げているかどうかは、やはり人々にとって気になるところである。これは、限られた資源をいかに効率的に配分するかという、経済学にとっても重要な関心事項である。……<br>
　第二に、教育成果が、それぞれの子どもたちにどのような異なる形で発揮されるかという点も重要である。同じ内容の教育を受けても、成果の挙がる子どもとそうでない子どもがいる。あまりにその格差が大きいと、とりわけ義務教育の場合は、教育における政府の関与のあり方について微妙な面が出てくる。このような教育成果の捉え方は、公平性という観点からのものである。(pp.112-3)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　経済学から教育にアプローチする場合には、何に着目すべきか。何もかも全部見てやろうというのは無謀である。筆者は、教育成果の中で数値化しやすく、しかも、間接的にせよ将来の所得水準に影響を及ぼすと考えられるものに限定せざるをえないと考える。そうなると、統一化された学力試験の点数などがその代表的な例になる。逆に、中央教育審議会が「生きる力」の構成要素としている、豊かな人間性など、評価自体が難しいものにはあまり手を出さないことにしよう。(p.113)<br>
</blockquote>
<h4><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/081#c4.2" name="c4.2" class="linkall"><span class="sanchor"></span>２　教育成果へのアプローチ</a></h4>
<blockquote>
　問題は、そうした学級規模の縮小が、教育成果を改善するかどうかである。教育規模を縮小すれば、それだけ単位当たりの教育費用が高まる。義務教育の場合、結局それは国民が負担するわけだから、きちんと成果が挙がってもらわなければ困ったことになる。ところが、前項で説明したアメリカの実証分析では、学級規模と成果の関係はそれほど有意ではなかった。<br>
　アメリカの最近の研究動向を見ても、方向性ははっきりしない。……テネシー州が一九八五年から取り組んでいる学級規模縮小の試みが一定の成果を挙げていることが報告されている。しかし、カリフォルニア州が一九九六年から三年間にわたって行った学級規模縮小は、授業法や指導内容面における変化の少なさ、教員需要の増加に見合う経験豊富な有資格教員確保の困難さ、授業スペース確保の困難さから、標準テスト得点の伸びで見た教育成果が期待するほど挙がっていないことも指摘されている。(pp.120-1)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　日本ではどうだろうか。……<br>
……<br>
　結果は、どちらの教科でも、また小学校・中学校のいずれにおいても、学級規模とテストの点数の間にははっきりした関係は確認できないというものである。……この分析は学級規模以外の要因を制御していないので、ここからただちに両者の間の無相関を結論づけることには慎重でなければならない。しかし、ここまで無相関の図が描かれるとなると、単純に学級規模を縮小するだけでは問題は解決されないということがわかる。(pp.121-2)<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/081#c5" name="c5"><span class="sanchor">■</span></a>第５章　成長を促し、格差を広げる教育</h3>
<h4><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/081#c5.1" name="c5.1" class="linkall"><span class="sanchor"></span>４　教育による格差の親子間継承</a></h4>
<blockquote>
……親がＥだけの教育を子どもに受けさせた場合、それが収益率ｒを生み出すものとすれば、……(p.180)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　教育は格差を拡大こそすれ、縮小することはないという議論は、教育に対する評価を厳しくするものである。ただし、だからといって教育の存在意義を完全に否定することはできない。その点は、きちんと押さえておかなければならない。すなわち、第一に、（８）式が示すように、教育は少なくとも平均的に見れば人々の所得水準を引き上げる効果を持っている。……<br>
　第二に、人々に強制的に受けさせる義務教育も、前述のように所得水準の絶対的な格差を縮小することはできないものの、相対的な格差を縮小することはできる。これは、（９）式を見れば簡単に確認できる。……<br>
</blockquote>
（８）式：　ｙ＝ｅ／［１－（１＋ｒ）β］<br>
（９）式：　ｙ＝（１＋ｒ）Ｅ＋ｅ<br>
<blockquote>
　右の説明では、教育の収益率はすべての子どもに共通であると仮定していた。しかし、現実的には教育の収益率は賦存能力によって左右されるだろう。シグナリング理論が想定するように、あるいは、教育成果に関する実証分析が示唆するように、親から受け継いだ賦存能力が高い子どもほど、同じ教育を受けても高い収益率を上げることができるかもしれない。そのとき、教育の格差拡大効果はさらに大きくなる。……(p.184)<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/081#c6" name="c6"><span class="sanchor">■</span></a>第６章　経済学から見た教育改革</h3>
<h4><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/081#c6.1" name="c6.1" class="linkall"><span class="sanchor"></span>４　「ゆとり教育」を超えて</a></h4>
<blockquote>
　それでは、政府による教え惜しみである「ゆとり教育」の経済的意義を考えてみよう。評価の視点は、二つある。<br>
　第一の視点は、人的資本論的な発想に基づくものである。あるいは、効率性の観点からの評価といってもよい。学校が子どもに教える内容を削減すれば、それだけ人的資本形成の蓄積が遅れる。……<br>
……<br>
　「ゆとり教育」に対する第二の視点は、公平性の観点からの評価である。効率性とは異なり、公平性の観点からの評価には微妙なところがある。というのは、これまでに説明したように、教育には子どもの能力を識別し、最終的には所得格差の拡大につながるところがあるからである。能力の高い子どもにとっては、教育内容の充実は望ましいところだが、能力の低い子どもにとっては、教育内容は低いほうがよいようにも思える。自分の相対的な能力の低さが露呈してしまうからである。……<br>
……<br>
　「ゆとり教育」は、効率性（人的資本論）の観点からは是認できないが、公平性の観点からは正当化できる面がある、というのが前項の整理だった。しかし、このうち後半部分については、本当にそうだろうかと首をかしげる読者が多いはずである。直感的におかしいなと思うことは、実は間違いであることがしばしばある。読者の直感は正しい。<br>
　というのは、前項の議論は、教育の供給を政府が独占し、子どもたちがそれ以外のところで教育を受ける可能性を無視しているからである。能力の高い子どもを持つ親は、薄っぺらな教科書しか使わない公立校の教育ははじめから相手にせず、自分で進んでより充実した教育を子どもに受けさせようとするだろう。……<br>
……<br>
　要するに、公平性の観点から見ても「ゆとり教育」は問題が多い。「ゆとり教育」は、学ぶことに興味を失いつつある子どもが、さらに勉強量を減らしたという、はなはだ悲惨な結末につながる可能性が高い。……(pp.214-8)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　このように考えると、私たちの進むべき方向は明らかである。すなわち、<br>
①　教育分野において、教育内容のスリム化に力を注ぐのではなく、むしろ学力の「底上げ」に重点を置き、誰もがきちんと基礎学力を習得できるようにする。<br>
②　税制や社会保障分野において、政府による所得再分配の仕組みをこれまで以上に個人に直接的に働きかけるような形に改革する、<br>
という両面作戦を進めることによって、所得格差の拡大や社会階層の固定化という、望ましからざる趨勢を阻止していく必要がある。(pp.220-1)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>福田誠治、競争しても学力行き止まり</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/080#tm1196870791</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/080</guid>
		<category>経済学::教育政策</category>
		<pubDate>Wed, 05 Dec 2007 16:06:31 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　福田誠治『競争しても学力行き止まり　イギリス教育の失敗とフィンランドの成功』、朝日新聞社、2007年。<br>
<blockquote>
　フィンランドにおいても、一九八〇年代末になると、雇用者側組織（組合）、すなわち企業家連合（ＴＴ）や自治体連合（ＫＴ）が新自由主義的な発言を開始した。とりわけ、企業家連合は一連の教育改革パンフレットを発行し、その案は以下の四点にまとめられる。<br>
　第一に、「新公共管理（ＮＰＭ）」の諸原則を学校教育制度にも適用することである。……<br>
　第二は、自由競争が教育の質を保証すると見なすことである。……<br>
　第三は、授業に構成主義的学習理論を適用することである。教師の指導は、学習者の自律と発見的教授法に置き換わるべきであるとされた。<br>
　第四の原則は、起業家的技能を学校カリキュラムに含めることであった。……(pp.128-9)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　だが、フィンランドの現実を分析していくと、「新自由主義」の諸原理を導入しながら、その効果を自分達で選択し、否定的側面の影響を消失させるように知恵をはたらかせていることが分かる。<br>
<br>
<br>
　まず「新公共管理」という第一の原則で言えば、フィンランドは、権限を地方に移管したが、成果主義を排除した。中央の枠はガイドラインにとどめ、教員など専門スタッフの支援に徹し、中央行政権限を条件整備と情報提供に限定した。その結果、現場に自由度と責任が増し、創造的で生徒個々人に合った質の高い、本来の教育が実現されている。…<br>
　第二に、競争原理については、フィンランドでは、これを否定する。フィンランドでも生徒・親が教師を、教師が校長を評価する調査が二年に一度の割合で自治体規模で導入されている。しかし、生徒には自己評価欄を大きくして自らを評価する側面を強めている。また、親は無記名で意見を寄せる。校長と教師は、親や生徒の意見を参考にして、討議し、改善点を一緒に探っている。同様に、行政側と校長とがやはりまたそれらの資料を参考にして改善策を話し合っている。それ以上のものではない。調査は子どもの教育を改善するためにあり、どこを改善すべきかが分かるような質問とし、結果をもとに協同して解決をさぐることが目指されていて、ランキングをつけて親に学校選択をさせるというような性格にはしていない。あくまでも現場の力を強めるように動いている。…<br>
　また、教師に対する人事考課は一切行わない。教師の行っている仕事の質が一人ひとり違うからだというのである。教師の給料は経験年数のみで決まる。<br>
……<br>
　さらに、学校や教師だけでなく、生徒も競争しない。自由は教育の質を保障すると見るが、競争が教育を保障するわけではないと考え、十六歳までの競争は排除されている。教育の質は、むしろ、競争を排除することによって保障されると考えるわけである。個々人の個性は、比較されることなく、できる限り伸ばされるように配慮され、授業で一律に制限されることはない。進学や選択授業など、広い意味での進路選択は、自分の到達度や意志のチェックを行うことで、順番づけではない。もし、力不足の場合には、必ずしも夢を変更しなくてもよく、選択を延期し、力をつければよいわけだ。<br>
……<br>
　平等の解釈についても、機会均等概念から個々人のニーズに合わせた教育へと変化してきている。そのため、学習進度の遅れ気味の子どもには補習を、学習困難を抱える子どもには特別支援教師をつけて特別なニーズの教育を保障している。……<br>
　このフィンランドの「全国学力テスト」は一〇～一五％の抽出調査であり、さらに学校が希望すれば受けられる。希望する学校とは、政府に不利な条件を訴えるとか、学校側が自分たちの教育成果をとくに確認する必要がある場合に限られる。そして、学校の成績調査は、運営上の改善点を分析することを目的とし、その評価や改善策の判断は現場に委ねられている。そのために、教師による日常的な評価ができるていねいな授業が行き渡り、テストの結果が次の教育に、子どものために、現場で生きている。<br>
……<br>
　個人の能力差は認める。しかし、子どもの成長に影響を及ぼす社会的・経済的背景の格差は何がなんでも埋めていく。そして、子どもたち一人ひとりを社会がしっかりと受け止めていく。これがフィンランドである。「新自由主義」が提起する規制緩和とは、必ずしも福祉社会を破壊して弱肉強食の競争に行き着くものではない。……<br>
　企業家連合が提案した第三の構成主義的学習理論については、フィンランドの教育界は、この案を全面的に採用した。しかも、一九九〇年代に世界で進展した最新の教育理論を取り入れて、社会構成主義にまで発展させている。構成主義とは、知識は主体自ら学び編成していくものとする立場であり、唯一絶対の知識や技能を否定する。……つまり、教育の場から詰め込み、強制を一切排除し、子どもが自ら学ぶ、しかも協同で学ぶような学習を組織していくことになった。そして、これが重要なことだが、オープンな（無制限開放型）知識観にたどり着いた。自ら学んでいけば、「国家カリキュラム」の想定枠を超えてしまうと言う意味と、探求の結果、知識内容は日進月歩するもので、固定したものではないといおう理解である。つまり、子どもが教師の予想を超えて成長することを認めるということである。<br>
　そのために、教師一人ひとりの質（専門性）を高め、その専門性が発揮されるように学級定員を小さくし、必要に応じて学級補助員を置き、最も効果の出るように教育条件の整備をした。学級定員は地方自治体で決められるが、ほぼ小学校で二五人、中学校で一八人が上限である。教科によって、さらにこれを小さく分けるのが普通である。統計上の数値によると、教師一人あたり小学校で一六人、中学校で一一人の生徒となっている。……<br>
　また、教師は専門家として尊重され、自己研修が十分に保障されている。……<br>
　企業家連合が提案した第四の経済と教育の結合について、フィンランドでは、この案も全面的に採用されている。ＥＵで話題となっている教科横断的テーマも、教科全体を通じて追求されている。産業や社会で使える学力として、数学的リテラシー、科学的リテラシーへの注目だけでなく、「読解力」の定義もいち早く改革されている。従来あったように比較的長い文学作品を鑑賞したり評論文を読んで教養を養うことよりも、短いけれども多様な情報を読み取り、分析し、評価し、表現する能力、いわば「言語・情報リテラシー」へと「読解力」の定義を転換した。……<br>
……<br>
　各学校に自由を保障し、自主運営にゆだねる点では、イギリスの学校も同じである。だが、現場に目標設定と評価の自由が許されるか、学校に平等が保障されているかどうかが大きな違いである。<br>
　……イギリスでは、教育行為に対する入口と出口の管理が大きく、現場に与えられる裁量は小さい。とりわけ、「国家カリキュラム」で教育内容がきびしく規定され、その実施状況を外部テストにあたる「全国学力テスト」や外部査察機関「教育基準局」が監視・管理している。親など社会も、「成績一覧表」で学校の成績を注視しているのである。そのために、教師の裁量権限は小さく、教育内容の範囲は狭く、教育方法も機械的になりがちである。<br>
　しかも、政府は、学校現場で起きていることには現場の自己責任論をとり、そこで起きていることには目をつむった。……<br>
　これに対して、フィンランド・モデルは、「国家カリキュラム」はあるもののガイドライン的なものにとどめられ、現場で変更可能、つまり解釈・運用権は現場にある。学力の外部評価も、「大学入学資格試験」にとどめ、しかもその結果はあくまでも個人のものと見なして学校の責任にはしない。……(pp.132-143)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>権丈善一、再分配の政治経済学Ⅱ</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/079#tm1196897799</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/079</guid>
		<category>経済学::厚生経済学</category>
		<pubDate>Fri, 30 Nov 2007 07:36:02 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　権丈善一『再分配の政治経済学Ⅱ』、慶応義塾大学出版会、2004年。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/079#c3" name="c3"><span class="sanchor">■</span></a>第３章　積極的社会保障政策と日本の歴史の転換</h3>
<blockquote>
　日本のように国民負担率が低く公共サービスが不十分な国で、財源調達力を高めるために増税しようとする際、租税や社会保険料の負担水準よりも、税〔社会保険料〕負担の不公平性の方が、政治的な障害を生むとわたくしはみている。……<br>
　ここで仮に、有権者の合理的無知と政治家の得票率極大化行動を仮定すると、政治家は租税制度を不透明かつ不公平にすることによって得票率を高めることができるということを、権丈(2001)<span class="footnote"><a title="『再分配の政治経済学』、第１章。" href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/079#fn1" name="n1">*1</a></span>で示した。このモデルにもとづくかぎり、[192]いくら、われわれ研究者や政府税調のような第三者的立場から、租税制度の透明性や公平性が必要であると論じてみても、現実は動くことはない。現実を動かすことができるのは、税制に通じる政治家たちであり、彼ら政治家は、租税制度の透明性と公平性を最も嫌っていると予測されるからである。というのも、税を専門とする政治家の権力の源は、租税制度の不透明性にあり差別化である。みずから支持してくれる人びとには租税負担を特別に優遇して他の者を冷遇する。そしてその冷遇処置を隠すために不透明な税制を作る──とは言え、そうした税の不公平性や不透明性は早晩周知のものとなり、増税の足かせとなる。それが彼らの政治力の源となるのであって、租税制度を透明にして公平にしてしまえば、彼らの力の源泉は消滅する。この論理にしたがえば、もし日本国民の特徴が、徹底した合理的無知にあり、日本という国が信じられないほどに政府の活動をチェックする機能をはたす市民が育っていない社会であるのならば、日本の租税制度が改善されることは期待薄ということになる。ゆえに、日本の政府は財源調達力を高めることはできなくなる。したがって、日本は過去の延長線上とは異なる未来をもつことはできず、社会問題も経済問題も解決できないままになるのかもしれない。この状況を避けるためには、日本の国民に市民としての自覚をもってもらい、特定の集団からの支援と縁を切り、租税制度の透明性、公平性を達成してくれる政治家を支援する＜市民＞としての働きをはたしてもらわなければならない。だが、これが一番難しい課題であり、＜市民＞不在の租税民主主義であることが、日本の歴史を形作ってきた根幹の部分であって、残念ながらその根幹は変わらないということなのであれば、日本は日本型福祉国家という典型的日本人好みの国作りをしつづけていかざるを得ないのかもしれず、それはこの国にとって、あまりにも惜しいことのように思える。(pp.191-192)<br>
</blockquote>
<blockquote>
……税制改革をやり遂げて積極的社会保障政策を展開し、第２次ケインズ革命とも呼べる方向に日本の経済そして社会を導くことによって、日本という国を未組織納税者の方を向いた国、生活者の方を向いた国、そして人びとが将来に対していだく生活不安を緩和することができ、ひとりひとりが今よりも豊かさを実感できる国に作り替えることができるように思えてならない。ゆえにわたくしは、社会保障分野に公共支出の方向を絞り込んだ形で青木・吉川モデルを現実に試すことができればという思いを、ここ数年捨てきれないでいる。そして、ひょっとするとこの国の経済政策のひとつの手段として積極的社会保障政策が採用され、典型的日本人が予想もしなかった方向に日本の形が変わってしまい、日本の社会経済制度は過去との継続性を放棄するという意味で日本の歴史は大きく変わるかもしれないとも思える──と同時に、そうなることへの期待を込めながら本章を閉じることにする。(p.193)<br>
</blockquote>
</div>
<div class="footnote">
	<p class="footnote"><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/079#n1" name="fn1">*1</a> : 『再分配の政治経済学』、第１章。</p>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/079#c5" name="c5"><span class="sanchor">■</span></a>第５章　社会保障の財源調達と消費税</h3>
<blockquote>
　このモデルによれば、日本の大型間接税をめぐる政治状況は簡単に説明がつく。すなわち、日本では民主主義というシステムを有効に活かすことのできる未組織納税者が十分に育っていないために、組織的な利益集団、ここでは益税を享受する中小の流通業者が政策形成の主導権を握ることになり、未組織納税者の利益が軽視され、利益集団にきわめて有利な政策が形成されることになったのである。(p.240)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　租税民主主義社会であるはずの日本において、納税者の利益に即した政策が[242]展開されない真の原因は、組織化された利益集団に与するべきか、それとも、未組織の納税者に与するべきかと政治家が自問する際に、日本では、後者の味方をすれば損をすると思えるほどにしか未組織納税者が民主主義を統治する市民として育っていないからである。この事実を、日本国民は受け止めるべきであろう。(pp.241-2)<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/079#c6" name="c6"><span class="sanchor">■</span></a>第６章　国税と社会保険料の財源調達力</h3>
<blockquote>
　たとえば、ある社会保障制度を、社会保険料のみ──社会保険料の費用負担割合は100％──で運営するように設計してみよう。この制度設計は、……1人あたりの社会保険料が高くなる制度選択をしたことを意味することがわかる。それゆえに社会保険料の未納者が多くなり、この制度の普遍性は低くなる。しかし、……社会保険料のみで費用をまかなう制度設計は、この制度にみるように、強い、すなわち、1990年代の日本のように長期停滞する経済状況にあっても、国民から安定的に所得を調達する力が強い社会保障制度が設計されたことになる。<br>
　逆に、ある社会保障制度を租税のみで運営するように設計した場合、……普遍性は高いけれども財源調達力の弱い、したがって給付抑制圧力が強く働きやすい制度ができあがることになる。(pp.258-9)<br>
</blockquote>
<blockquote>
　最後に、国税に社会保険料に勝る財源調達力を与えるのは、「制度」を決める政策形成過程において、本当のところで影響を与える納税者達の「意識」である。社会保険料という財源調達方式が、本質的に租税方式よりも強い財源調達力を備えもつわけではないこと、さらに社会保障における国庫負担をはじめとした公費が、財政事情にどの程度敏感に左右されるかと言うことは、まさに、社会保障の存在意義を国民がどのように「理解」するか（この「理解の仕方」[261]が他の財政支出項目との間の優先順位に影響を与える）にかかった話であることを記しておきたい。<br>
　もっとも、納税者の意識は、長い歴史によって培われるものであり、社会保険に国税よりもはるかに強い財源調達力を与える日本の納税者たちが、国税にも社会保険と同等の財源調達力をもたせることができるようになったり、社会保障における公費に安定性をもたせるには、ある種歴史を変え得るほどの相当の力が働かなくてはならないような気はする。(pp.260-1)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>シャヴァニュー＆パラン、タックスヘイブン</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/078#tm1196344290</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/078</guid>
		<category>経済学</category>
		<pubDate>Thu, 29 Nov 2007 13:51:13 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　クリスチアン・シャヴァニュー＆ロナン・パラン『タックスヘイブン』、杉村昌昭訳、作品社、2007年。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/078#10" name="10"><span class="sanchor">■</span></a>タックスヘイブンとして識別するための10の指標</h3>
<blockquote>
(1)　非居住者に対してだけ、わずかな課税か、無税<br>
……<br>
<br>
(2)　銀行の秘密保持が強化されている<br>
　金融操作の秘密厳守は、世界中いたるところで行なわれていることである。しかしタックスヘイブンは、次のような点でそれとは区別される。すなわち、タックスヘイブンにおいては、金融機関は自分たちの顧客についての情報を別の顧客に提供しないだけでなく、顧客の出自・性質・名前などを自国の政府にも明かさないように法律で義務づけられているのである。たとえば、スイス、オーストリア、ルクセンブルクなどがその例である。この特徴によって、オフショア金融センターは脱税者やマネーロンダリングをする者にとって天国となっているのである。<br>
<br>
(3)　職業上の守秘義務の範囲が広い<br>
　タックスヘイブンに関係する弁護士・会計士・各種の職員などは、顧客や顧客の行なう操作に関する秘密の厳守について（操作が外国の地域の法を侵している場合も含めて）、厳密な規則による統制の下に置かれている（統制を免れているものが統制しているというわけだ）。<br>
<br>
(4)　登記手続きが、いい加減ですむ<br>
　タックスヘイブンとみなされる地域に登記しようとする企業は、自社についての情報を提供しなくてもよい。いくつかの地域では、無記名証券でも会社を設立することができるので、株主の正体を隠すことができる。<br>
<br>
(5)　国際資本の移動が、全面的に自由にできる<br>
……<br>
<br>
(6)　執行が敏速である<br>
　企業の進出が驚くほどの速さで実現できる。……<br>
<br>
(7)　大金融センターの支柱になる<br>
……<br>
<br>
(8)　経済的・政治的に安定している<br>
　これはタックスヘイブンのような活動を行なっている場所にとって、本質的に重要なことである。<br>
<br>
(9)　ブランドイメージが良好である<br>
　タックスヘイブンとなっている地域は、その名前が贈収賄やマネーロンダリングと結びつきすぎてはならない。<br>
<br>
(10)　双方向的な合意網をもっている<br>
　タックスヘイブンは一般に諸大国と協定を結んでいて、企業の子会社に二重課税しないように配慮している。<br>
(pp.25-7)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>ジョーンズ、経済成長理論入門</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/077#tm1196322752</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/077</guid>
		<category>経済学</category>
		<pubDate>Wed, 28 Nov 2007 14:15:18 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
<blockquote>
9.1 貧富の格差<br>
　この問題への最初の解答は、ソロー・モデルによって与えられている。定常状態における労働者１人当たりの産出は、物的資本や技能のような私的投入への投資率、労働力人口の増加率、およびこれら投入の生産性によって決定される。資本、教育、生産性に関するデータは、ソロー仮説を強く支持している。豊かな国は、そのＧＤＰと時間の大きな割合を資本と技能の蓄積に投資してい[168]る。しかし米国が豊かなのは、労働者１人当たりにして多くの資本と教育を持っているからだけではなく、それらの投入がきわめて生産的に利用されているからこそでもある。貧困な国は資本や教育に欠けているだけでなく、それらを投入に用いる際の生産性も同様に低い。<br>
　ソローの理論枠組みでの解答は、さらに次の問題を引き起こす。どうして他の国よりずっとわずかしか投資をしない国があるのか。場所によって資本や技能の生産性がひどく低いのはなぜか。第７章では、その経済にとって法律、政府政策、制度が重要な役割を演じていることを示した。これらのインフラストラクチャーは、個々人が生産し交換する場合の経済環境を提供する。もし、その経済のインフラストラクチャーが生産と投資を活発にするものである場合、経済は繁栄する。しかし、インフラストラクチャーが生産ではなく浪費を奨励するようなものであれば、その結果は有害であり得る。企業化が投資収益の回収を保証されていないならば、投資は行われない。このことは資本、技能、そして技術への投資すべてについて当てはまる。腐敗、賄賂、窃盗、そして没収は経済における投資への誘因を劇的に減少させ、所得に破滅的影響を与える。租税、規制、訴訟、陳情なども、それほど極端でないにしても先進国においてですらあらゆる種類の投資に影響する浪費の例である。もちろん、先進国はその経済において行われる浪費の程度を限定することができるからこそ先進国なのであるが。<br>
<br>
9.2 成長のエンジンとは？<br>
　経済成長のエンジンとは発明である。数学的レベルで言えば、このことはソロー・モデルが示唆している。このモデルにあっては、成長は生産技術が指数関数的に改善されるのでなければ、成長は停止する。第４章、第５章で見たローマー・モデルはこのエンジンを詳しく検討している。企業家は発明に報いる名声と財産を求めて、技術進歩を推進する新しいアイデアを創出する。<br>
　このエンジンを注意深く分析すると、アイデアは他の大抵の経済財と異なることが分かる。アイデアは非競合的だ。…この性質があるの[168]で、アイデアを含む生産関数は収穫逓増にならざるを得ない。…<br>
　規模についての収穫逓増があるので、完全競争を用いてアイデアの経済学をモデル化するわけにはいかない。そこでモデルに不完全競争が導入される。企業は、アイデア創造に必要な１回限りのコストをカバーするために、限界費用を上回る価格を課すことができなければならない。…経済成長のエンジンの経済的「燃料」となるのは、この価格と限界費用の間の開きである。<br>
<br>
9.3 成長の奇跡とは？<br>
……<br>
<br>
9.4 結論<br>
　歴史の広漠とした行程を通じて、経済成長の過程は間欠的であり、一貫したものでなかった。財産権のような制度が十分に発達していなかったために、発見や発明は希にしか起きなかった。これらの発明を実現し応用するのに必要な資本や技能への投資が欠けていた。こうした問題は今日でも、世界中の多くの国々の窮乏を招いている。<br>
　近代になって、特定の国々に経済成長を支える制度とインフラストラクチャーが出現した。その結果、成長のエンジンである技術進歩が活力を得て轟音をとどろかせつつ疾走した。この発展で生活水準がどうなったかは、世界の最富裕国の富を見れば明らかだ。われわれの経済成長理解が正しいとすれば、同じ活力は世界の最貧困地域にも存在するはずで、ただ、いまは眠ったままの状態でいるだけだと期待してよい。(pp.167-70)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>兪炳匡、「改革」のための医療経済学</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/076#tm1195955172</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/076</guid>
		<category>経済学::医療政策</category>
		<pubDate>Tue, 20 Nov 2007 08:08:33 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　兪炳匡『「改革」のための医療経済学』、メディカ出版、2006年。<br>
<ol>
	<li>需要側に経済的動機を与えてもコスト抑制にはほとんど無効（窓口自己負担を引き上げてもダメ）。</li>
	<li>安易な民営化が招く「制度の二層化」は後戻りできない。</li>
	<li>制度の二層化から、公的制度の収支が悪化、増税にいたる可能性も。</li>
	<li>医療機関も二層化し、公立病院の収支が悪化、増税にいたる可能性も。</li>
	<li>診療報酬一律カットから、医師誘発需要が増大。保険の収支は改善しない。</li>
</ol>
<br>
<ol>
	<li>成功例は、公的皆保険下での「総額規制」と「医療機関の機能分化」。</li>
</ol>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>レヴィナス、全体性と無限</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/075#tm1195517235</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/075</guid>
		<category>未分類</category>
		<pubDate>Tue, 20 Nov 2007 00:07:15 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　レヴィナス『全体性と無限』、上巻、岩波文庫。<br>
<blockquote>
……私たちが語りにおいて接近することになるのは多くの場合、対話者、つまり私たちの師ではない。むしろたんなる対象であるような相手や子ども、あるいはプラトンがそう語っているように、群衆のひとりとしての人間である*。子どもに教育するような、あるいは洗脳する場合のような語りはレトリックなのであって、それは隣人を策略にかける者の立場にたつものである。ソフィストの技術が、それとの対立関係において真理をめぐる真の語り、あるいは哲学的な語りが定義される主題となるのは、そのゆえにである。どのような語りもレトリックをまぬがれないけれども、哲学的な語りはそれを乗り越えようとする。レトリックが語りに抵抗しようとするからである（あるいは、教育に、煽動に、洗脳にみちびこうとするからだ）。レトリックは、正面からではなく斜めから＜他者＞に近づく。なるほど、＜他者＞をもののようにあつかうというわけではない。レトリックであっても語りでありつづけるし、策略のかぎりをつくして＜他者＞に向かい、＜他者＞を承諾へとみちびこうとするからである。けれどもレトリックの（宣伝の、追従の、社交辞令等々の）とくべつな本性は、承諾の自由を買収しようとするところにある。レトリックは、だからこそすぐれて暴力であり、言い換えるなら不正にほかならない。惰性的なものにふるわれる暴力ではなく──そうであれば暴力ではないだろう──、自由に対してふるわれる暴力なのだ。自由は、自由にほかならないものとしては買収不可能なもののはずなのである。自由に対して、レトリックはあるカテゴリーを押し当てることができる。自由をある本性とみなしているように見えるレトリックは、ことば自体が矛盾におちいるような問いを立てる。つまりレトリックは「この自由の本性とはなにか」と問うからである。<br>
<br>
　レトリックがともなう洗脳を、煽動を、教育を放棄することは、他者に正面から、真の語りをかいして近づこうとすることである。他者の存在はその場合、いかなる度合いでも対象ではなく、その存在はいっさいの支配の外部にある。対象的なありかたのすべてからこのように離脱することが、他者の存在に対して積極的に意味しているのは、他者が顔において現前していることである。つまり他者の表出であって、またそのことばである。他なるものとしての＜他なるもの＞とは＜他者＞である。＜他者＞を「存在させる」ためには、語りの関係が必要とされる。＜他者＞が主題として提示されるたんなる「開示性」は、＜他者＞に充分な敬意をはらってはいない。これに対して、このように語りにおいて正面から＜他者＞に接近することを、正義と呼ぶことにしよう。真理が出来するのは、存在がその固有の光によって煌くような絶対的経験にあってのことであるとするならば、真理が生起する場も、真の語り、つまりは正義のほかはない。(pp.126-128)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>今村仁司、貨幣とは何だろうか</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/074#tm1195444088</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/074</guid>
		<category>経済学</category>
		<pubDate>Mon, 19 Nov 2007 03:47:33 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　今村仁司『貨幣とは何だろうか』、ちくま新書。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/074#2" name="2"><span class="sanchor">■</span></a>第２章　関係の結晶化</h3>
<blockquote>
　ジンメルの貨幣哲学から学ぶことは、いくつかある。<br>
　第一に、ジンメルは、貨幣現象を、関係主義的存在論の観点から、人間存在の基礎から光をあてた。それは、貨幣という現象を経済的表層から存在の根源にまで根をおろしているすぐれて人間的現実であることに、われわれの目を開かせることになった。…[75]<br>
　第二に、ジンメルのおかげで、貨幣が媒介形式であることの意味を、単なる経済的交換（媒介）を超えて、人間社会の交通形式にまで拡大することができるようになった。そうすることで、貨幣論を、素材貨幣論から解放して、貨幣形式論として議論することができる。<br>
　第三に、貨幣廃棄論という、十九世紀と二十世紀の革命主義のなかで影響力をふるった固定観念は、ジンメルの貨幣哲学によって解体されるのだが、それは過去の話ではなくて、むしろ現在において歴史的現実性を帯びてきている。…<br>
　ただし、ジンメルは貨幣廃棄の不可能性を語るのであるが、貨幣のマイナスを乗りこえる可能性には沈黙している。それは彼の残した課題であり、むしろわれわれが進んで引き受けなくてはならない。<br>
　たぶん、その展望を開くのは困難ではあろうが、しかしジンメルは「関係の媒介形式」というアイディアを残してくれた。媒介形式が人間の社会的存在から除くことが原理的に不可能であるのなら、この媒介形式の非「貨幣」的存在を構想する意外に新たな展望はな[76]いだろう。(pp.74-76)<br>
</blockquote>

</div>

]]></description>
	</item>
	<item>
		<title>吉川洋、構造改革と日本経済</title>
		<link>http://www.mojimoji.org/adiary/note/073#tm1194853992</link>
		<guid>http://www.mojimoji.org/adiary/note/073</guid>
		<category>経済学</category>
		<pubDate>Mon, 12 Nov 2007 07:32:18 GMT</pubDate>
		<author>モジモジ</author>
		<description><![CDATA[<div class="section">
　吉川洋『構造改革と日本経済』、岩波書店、2003年。<br>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/073#c3" name="c3"><span class="sanchor">■</span></a>第３章　経済成長の源泉</h3>
<blockquote>
　「新しい財」の登場は、一九八〇年代に「新しい成長理論」として世界の学会をリードしたローマー、グロスマン、ヘルプマンなどいわゆる「内生的成長理論」によっても強調された。しかしそこでは新しい付加価値の高い財が自然に消費者に受容されると仮定されており、「需要制約」は存在しない。新しい財は付加価値が高いと仮定されているからそれが経済成長の源泉になる。つまり新しい財の誕生は、前と同じ資本と労働の投入量の下でより大きな付加価値を生むと仮定している。したがって結局それはＴＦＰの上昇と同値になるのである。しかし需要の伸びの大きい新しい財は、古い財に比べて必ずしも付加価値が大きいとは限らない。パソコンの価格は自動車の価格より低い。にもかかわらずパソコンやケイタイの登場が経済を引っ張るのは、需要の成長が（少なくともその初期段階において）爆発的に高いからである。新しい財・サービスは何よりも「需要制約」を取り除くことにより、経済成長を生み出すのである。<br>
[92]　需要の伸びの大きい財・サービスを生み出すイノベーションは、このように需要制約を取り除くところに最大の意義がある。それは「技術進歩」の尺度として公認されているＴＦＰとは根本的に異なるものである。もちろんＴＦＰは間違っているとか、ＴＦＰは大事でない、と言っているのではない。ただ「需要創出型」のイノベーションとＴＦＰの相違を認識することは重要であり、前者がおきているときに、サプライ・サイドでＴＦＰの上昇は起きていないということもありうる、という事には注意する必要がある。(pp.91-2)<br>
</blockquote>
ＴＦＰ：全要素生産性<br>
<blockquote>
　既存の財・サービスに対する需要の飽和、需要創出型のイノベーションの意義について理解すれば、経済の「構造変化」と経済成長は互いに切り離せないコインの表裏だということが分かるだろう。リンゴ、ミカン、自動車……等々、財・サービスの数量を並べたバスケット（ベクトル）を考える。頭の中ではすべての財・サービスの数量が二倍になる比例的な成長というものを想像することが出来る。しかしそれはまさに「想像」にすぎず、現実の経済においてはそうした「比例的成長」というものはありえないのである。……経済の中身が変わること、各産業・セクターが不均等な発展をとげること、したがって資源が次々に異なるセクターへシフトしていくこと、これを経済の「構造変化」と呼ぶならば、構造変化[94]を通してのみ持続的な経済成長は実現する。(pp.93-4)<br>
</blockquote>
→松本和幸・吉川洋（二〇〇一）「産業構造の変化と経済成長」、財務省財務総合政策研究所『フィナンシャル・レビュー』第五八号、財務省印刷局。<br>
<blockquote>
　このように成長率の高低と、産業構造の変化の大小の間には比例的な関係がある。つまり経済成長というものは、成長率が高くなればなるほど産業間、セクター間でデコボコが生じるというわけだ。既存の財・サービスの需要は必ず飽和し、新しい財・サービスの誕生が新たな成長を主導するわけだから、こうした事実は偶然的なものではなく、必然なのである。<br>
　このように考えてくると、日本経済が成長するためには需要の伸びの大きい新しいセクターに資源がシフトしていかなければならないこと、逆に日本経済が過去一〇年平均一％という低成長に苦しんできたのは、そうした産業／部門間調整がうまくいかなかったからだということが分る。このことは第２章第４節でも指摘した。<br>
　一九三七年ケインズは「人口減少の経済的帰結」と題する講演をした（Keynes 1937）。この講演でケインズは人口増加がつづいた十九世紀に別れを告げて人口減少の時代を迎えるイギリス経済の課題について話をした。人口減少は投資を減退させるから利子率を低くする必要があること、また投資の低下を埋め合わせるべく消費を増大させるためには所得再分配を進める必要があること、こうしたことに加えて次のような興味ぶかい指摘をしている。投資を左右する企業の「期待需要」は、人口が増加[96]しているときには楽観的になるが、人口が減少しているときには悲観的になる傾向がある。過去になされた過剰投資の修正も人口が増加しているときにはやり易いが、人口が減少しているときには難しい。人口増加が減少に転じる転換期の経済はペシミズムによって壊滅的（very disastrous）な影響を受ける可能性がある。<br>
　「右肩上がり」の時代から「右肩下がり」の時代へ。その時に生まれるペシミズムの危険性をケインズは指摘した。労働力人口の減少は直感的にイメージされるほどには経済成長を決定的に左右するものではない。このことは前節で説明したとおりだ。しかし人口減少は、産業／セクター間の構造変化にとってたしかに「逆風」なのである。<br>
　構造変化は「需要の制約」を打破することにより成長を生み出す。こうしたプロセスにおいて需要と供給は単純に分けることは出来ない。需要の制約は「短期」、構造変化を「長期」の問題と呼び、「短期」と「長期」を段順に分けることもできない。第２章で紹介したアメリカの「大不況」に関するバーンスタインの研究が明らかにしたように、両者は分けることができないのである。(pp.95-6)<br>
</blockquote>
シュムークラーの研究、馬蹄の技術進歩について<br>
<blockquote>
　シュムークラーはこの発見に基づき、個々の産業にみられるＳ字型成長パターンは、技術進歩の枯渇ではなく、需要の飽和によってもたらされるものだということも指摘している。(p.99)<br>
</blockquote>
</div>

<div class="section">
<h3><a href="http://www.mojimoji.org/adiary/note/073#c45" name="c45"><span class="sanchor">■</span></a>第４章、第５章</h3>
<blockquote>
…しかし「分配」の問題は、産業／セクター間の構造変化と同じように、ゼロ成長ではなく「経済の成長と発展の過程において処理するときに、もっとも円滑に、もっとも適切に解決できるものである」という池田の主張は現在でも立派に通用する議論である。成長が一〇％でなく二％でも三％でも基本的な考え方は同じである。(p.120)<br>
</blockquote>
<blockquote>
…経済成長はマイナスの副作用をもちながらも全体としてみれば人々の厚生を増進しているものと考えられる。したがって今でも二ないし三％の潜在成長率を実現すべく努力するべきだ。雇用の面[131]から見てもそれぐらいの経済成長が望ましい。これが本書の基本的立場である。(pp.130-1)<br>
</blockquote>
<blockquote>
…日本経済再建の大前提としてまず「不安」が解消されなければならない。具体的には（１）金融システムの安定、（２）社会保障制度の抜本的改革、（３）雇用不安の解消である。(p.131)<br>
</blockquote>
製薬承認、特許承認、知財紛争処理が遅い。<br>
<blockquote>
　二一世紀初頭、日本の経済社会にとって新しいニーズ……[155]が生まれる分野は一体どこにあるのだろうか。細かい事ははっきりとしない。しかし大まかな姿はかなり明確になってきている。例えば、環境制約、高齢化社会の到来などだ。「必要は発明の母」という言葉があるが、経済社会にとってはチャレンジこそは潜在的なニーズにほかならない。(p.154-5)<br>
</blockquote>
環境制約：新エネルギー、燃料電池、バイオマス、風力。<br>
「動け！日本」より：「名医に代わる技術」「在宅ヘルスケアシステム」「バイオマテリアル」「高度テーラーメイド医療」「ロボット秘書」「複数家電の協調動作」「ナノコードによる食・製品の安全」「健康的な水・空気・土の回復」「燃料電池」<br>
「健康」「住宅」「環境」「教育」<br>
<blockquote>
　新しい需要はこうして次々に生まれるに違いない。それと並行して既存の財・サービスに対する需要の伸びは鈍化する。それだけではない。そうした財の生産は次々に中国をはじめとする新しい国へ移っていく。そうした流れは止めることは出来ない。<br>
　新しいニーズは存在する。問題はそれに応える「技術」と、技術とニーズを的確に結びつける「経営力」である。……それが「持続的」な需要の伸びを通して経済成長を生む。「構造改革」はこうしたイノベーションと需要の好循環を生み出すための改革である。(p.157)<br>
</blockquote>

</div>

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