【日記】
▼ 2010/09/05(日) 2010-09-05
▼ 2010/08/31(火) 2010-08-31
【日記】
「専門は何ですか?」と聞かれて困るという研究人生もどうかとは思うわけだが。「研究テーマは何ですか?」ならハッキリしてる。「再分配」。「再分配とはなにか。再分配をしなさい。再分配をした方がよい」をどう言うかについて考えています。
しかし、そもそも「再分配ってなによ」というのが普通の感覚だよな。
経済というのは、つまりは「働ける人が何かを作り、みんなで分ける」ということ。生産して、分配する。で、現代社会においては、何を生産するか・誰にどれだけ分配するかが、市場というしくみを通じて行われる。ところが、市場が実現する分配では困ることもある。足りない人が出てくる。たとえば重度障害者はたくさんを必要とするのだが、市場を通じては、その人のところにあまり多くは分配されない。そのとき、「足りない人の取り分を増やす、そのために、足りてる人の取り分を減らすこともある」というのが再分配、つまり、「再び分配して調整する」ということ。
昨日のデイヴィドソン話の続き。
こう考えると、言語って結構頼りない。しかし、私たちがそれでもやっていけるのは、私たちが一つの世界の中にいて、だいたい同じような器官を通じて世界を感受しているという事実によるのでしょう。<雨が降っている>ときに生じるさまざまな感覚刺激があり、そこに私とは区別された別の誰かがいることに由来するさまざまな感覚刺激があり、その人もまた私と同様に<雨が降っている>と関係したさまざまな感覚刺激を受け取っている。つまり、「(a)から(b)が導ける」と前提しちゃっても、期待を外すことがあまり起らない。だから、それなりに試行錯誤すれば、だいたい使い物になる言語が手に入る。概ね、こういうもんだと理解しています。
ただし「視覚を持たない人」や「聴覚を持たない人」もいるわけで、人それぞれ異なる感覚刺激を受け取っていることは珍しくありません。もっと微妙な差異ならいくらでもあるでしょう。それゆえに誤解や驚きを経験することは多々あります。より抽象的な概念に関わる表現なら、どうでしょう。しかし、差異を表現できるためには、共通に使える言語がないといけません。つまり、ここまでの話は「似た感覚を持つからこそ、共通の言語が作れる」という話だったのですが、「共通の言語があるからこそ、異なる感覚を表現したりそれを理解したりできる」という話がいります。これは寛容の原理云々の先の話です。このあたりをデイヴィドソンがどういう議論してるかはわかりません。ただ、私見では、ここから先の話は実際の言語に関わって実証的に考えていくのも実りが多いようには思います(認知言語学とか)。レイコフとかの話になりましょうか。
少し先に進みます。言語というのは、有限個のパーツ、それも、話し手と聞き手が事前にある程度共通の認識を持ちうる範囲内の量のパーツを組み合わせて、それこそ無限に多様な内容を表現できることが要請されるわけです。これは相当に困難な課題ですが、レイコフによれば(めちゃくちゃ大雑把に言っちゃえば)、言語は「人間がメタファーを通じて理解する」能力を最大限に利用することでこれを可能にしています。認知言語学の本を読むと、たとえば、本来空間的関係を把握する意味が込められているinとかonとかatとかの前置詞に、空間的関係から類推できる別種の多様な関係を意味させるように使うとか、そういうしかけがたくさん出てきます。なので、デイヴィドソン流の言語が最初にあって、それを発展させてもっと多様な表現ができるように組み立てられている、と考えるといろいろ辻褄が合います*1。
まとめると。(1)存在があり、存在についての認識があり、そこから認識の表現たる言語が生まれます。まず、認識のところであまり差が生じない、そういう対象についての言語表現が、まずは、作られる。(2)そこを基盤として、言語表現から逆に認識の違いに到達できる、認識の違いと観察からより正しい認識に到達できる、そういう可能性が開ける、というような話ですね。もちろん、(1)と(2)のプロセスは両方が同時に行われているのを常態と考えるのが正しいと思いますが。で、デイヴィドソンの議論とは、すべての基盤としての(1)の部分を可能にしているのが寛容の原理だ、という話かと。議論における寛容みたいな話ってのは、(2)のレベルの話をしているんだと思うわけですね。(1)と(2)のレベルの寛容ってのは、関係はしてそうなんですが、「その説明には手間をかける必要がある」というくらいには別の話だろうとも思います*2。
*1 : 本当はいろいろ検討してみたいのですが、10年後くらいに抱えている仕事が片付いてたらやろうかと思います。
*2 : 誤用とまでは言わんけど、デイヴィドソンを引き合いに出す意味はないわね。いわゆる寛容さの話をしているだけなら。
ただ、歴史修正主義者の議論とか読んでると、こういうところでデイヴィドソンの名前が出てくる感じはわからなくはないのだよな。たとえば、「南京大虐殺」という記号が、「1937年12月から翌年にかけて南京で生じた出来事」なのだが、具体的に何月何日から何月何日までを対象とするのかは、論者によって若干の差異がある。また、この場合の南京とは、「南京城内+城外の広大な範囲」を指す。これに対して、修正主義者はより短い期間を対象とし、範囲を南京城内に限定して議論をしていることがよくある。同じことを何度指摘されても直さない人も珍しくない。寛容の原理という意味で言えば、あいつら寛容過ぎるんじゃないのか、とさえ思うわけで。……ただ、繰り返すけど、デイヴィドソンの寛容の原理に関係しているっぽいけど、やっぱり別物ではあるのだ。もうめんどいので、あまり深めずここで終わる。
▼ 2010/08/30(月) 2010-08-30
【日記】
(a) xは時刻tにおいて「シュプルラグ」を真とみなしており、しかも時刻tにおいてxの近くで雨が降っている。観察データとして集めることができるのは(a)ですが、私たちはそこから(b)が導けるかのように解釈するわけです。それが可能なら、(a)と同様のデータがたくさんあれば、(c)という認識に到達することもできそうです。しかし、(a)から(b)が導けることを保証するものはありません。私たちはどのようにこの溝を跳び越えるのでしょうか?
(b) xが時刻tにおいて発話した「シュプルラグ」が真であるのは、時刻tにおいてxの近くで雨が降っている場合その場合に限る。
(c) (当の言語のいかなる話し手がいかなる時点に発話したとしても)「シュプルラグ」が真であるのは、雨が降っている場合その場合に限る。*1
ここでおもしろいのは、デイヴィドソンは「どうやったらこの溝が跳び越えられるか」などとは考えないことです。「コミュニケーションが成立するとは、この溝が跳び越えられるということなのだ」といきなり言い切ります。実際に飛び越えられているかどうかは知らないが、飛び越えたことにする。これが寛容の原理です。そうしないと、どんな解釈も始まらないからです。
しかし、「シュプルラグ」が「雨が降っている」の意味でない場合というのは、いかにもありそうです。その場合はどうなるのでしょうか?もちろん、いろいろと不都合が生じるでしょう。たとえば、「シュプルラグ」と言うので傘を持って出てみたら、雨は降っていない。あるいは、雨が降っているので「シュプルラグだね」と言ってみると、首を振って否定された*2。なんだかうまくいかない。それでは、ということで、僕らは先の(a)(b)(c)を次のように置き換えて考えてみるかもしれません。
(a') xは時刻tにおいて「シュプルラグ」を真とみなしており、しかも時刻tにおいてxの近くで日が翳っている。「雨が降っている」ことと「日が翳っている」ことは同時に起ることが多いとすれば、最初の勘違いもありそうな話ではあります。そこで、(a')(b')(c')で考え直してみる。このとき、その後のコミュニケーションで齟齬が生じないならば、なるほど、「シュプルラグ」は「日が翳っている」という意味でよさそうです*3。
(b') xが時刻tにおいて発話した「シュプルラグ」が真であるのは、時刻tにおいてxの近くで日が翳っている場合その場合に限る。
(c') (当の言語のいかなる話し手がいかなる時点に発話したとしても)「シュプルラグ」が真であるのは、日が翳っている場合その場合に限る。
大事なポイントは、「シュプルラグ=雨が降っている」ではどうもマズイらしいと気づくためには、寛容の原理にしたがっている必要がある、ということです。別様に言えば、寛容の原理を採用しない場合、解釈に失敗することさえできない。コミュニケーションを成立させたいと思うなら、寛容の原理を採用しないわけにはいかないわけです。