▼ 2010/02/21(日) 「和解」の中のナショナリズム
【日記】
この間、いろいろ考えてきたが、朴裕河の提起した問題は重要なものであった、ということには同意できる。で、朴裕河の難点はこのあたりにありそうだな、というのが見えてきた気がする。とりあえず、まだ拾い読みしかしていないけれども、朴裕河『反日ナショナリズムを超えて』の最後の一節。
民族解放の日から五五年、もはや征服されていた期間の三六年よりもずっと長い歳月が流れ去った。五五年といえば、これを人間の年齢に当てはめると、解放後の私たちは中年にさしかかってしばらく経ったところである。いくつかの問題点が含まれている。まず第一に、朴裕河は一体誰に向かって語りかけているのだろうか?という点である。韓国社会に対して、その社会を構成する一人一人に対して語りかけているのではあるだろうが、たとえば、従軍慰安婦とされた女性たちを具体的に想起してみると、そうした人たちへの語りかけにはなっていない。そういう人たちにとっては「民族解放の日から五五年」などということはどうでもよい話だろう。必要なことは、真相究明と責任者処罰と補償であり、それがあったとしてさえ、和解しうるかどうかは別の問題だ。「民族解放の日から」といった発想をするのは、おそらく、「普通の韓国人」意識を持つ韓国社会のマジョリティだろう。
そろそろこの辺りで、中年の成熟に任せて傷から自由になりたいとは思わないだろうか? トラウマとは距離を置いて、被害者意識に根ざすか、もしくは紋切り型になっている日本観から脱け出し、あるがままの彼らの姿を見てみたくはないだろうか? 屈辱的な被植民地化の道をたどることになってからというもの、ひょっとしたら一〇〇年間も痛みに耐えてきたかもしれない私たち自身を、そろそろ癒してやりたくはないだろうか? トラウマを踏み越えて立ち上がったその日こそ、おそらく私たちに本物の独立が可能になるはずである。
日本と望ましい関係を構築するという課題は、彼ら日本が強大国だからではなく、地理的に隣同士であるという韓日間の宿命を賢明に受け入れるためにも必然と考えるべきことである。何より、お隣さん同士の間柄は悪いものと決まっていた歴史の愚を、二一世紀になってまで引きずり続けないためにも、それは必要なのである。
二一世紀の今こそ、隣国としての宿命を賢明に受け入れたいものである。(p.242)
つまり、この文章は韓国社会のマジョリティに(のみ)語りかける形式になってしまっている。それはそれで良いと言うとしても、その上で、「普通の韓国人」意識自体は批判されていないというところまでは看過できない。これでは、「反日ナショナリズム」を超えて「健全なナショナリズム」を目指しているように読めてしまう。そして、この難点は『和解のために』にも引き継がれてしまっているように思う。この点は、やはり、無視できない。……他方、李建志は、この難点を免れているように思う。
もう一つ、朴裕河は和解についてかなり楽観的に見ている点が気になる。しかし、阿部利洋やミノウなんかを読むと思うが、大事なことは「和解の不可能性」の自覚だ。にも関わらず、真相解明や責任者処罰や補償に向けた努力がなされ、その中で、社会的関係が変容する。その可能性に賭ける。せいぜい、この程度のことしか言えない。和解の必要条件に向けた努力がなされるとしても、それは和解を約束しないし、それどころか「和解に向けた」努力と位置づけることさえ難しい*1。……これはおそらく、第一の問題と無関係ではない。そもそも、ナショナリズム同士の対立における敵対感情には、元々そうであるべき必然性などない、それは解消どころか、雲散霧消したって不思議ではないもののように思える。ただ、植民地統治や戦争による具体的な被害の問題はこれとは違う。そのレベルの問題に対しては、朴のような和解論は適用のしようがないだろう。
*1 : ある人は、「復讐として」真相解明の仕事に従事したりするのだから。
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