▼ 2010/03/01(月) 「反日上等」とか
【日記】
いしけりあそびさんとflurryさんのやりとり。とりあえず、次の3つのみ。>いしけりさん→flurryさん→いしけりさん
いしけりさんの2つめの発言より。挿入句が多いので、読みやすいようにいくらか編集してます*1。
抑圧されている当人は、大声出したがります。抑圧が強ければなおさらです。……でも、感情にまかせて大声の出し合いしてたら、絶対に外国人は負ける。どこまでいっても少数者ですから。「善良な外国人」だってそうなんだから「善良じゃない人」なんてなおさらです。ズタズタにされますよ。/だから、安全地帯にいて、これに関わろうとする人間……の義務は……、彼らの目の前で味方のふりをして、一時的なカタルシスを与えるのではなく、彼らの罵声に耐えて、それを受け止めつつ、彼らの声を、なんとか潰されないように社会に届けることだと思っています。これはしんどい作業ですが……、黙々とその姿勢をつらぬけば、相手はわかってくれます。自分も嫌な思いをしますが……、そんなの気にしてたらやっていけない。ほとんど徒労に終わりますし、時には依頼者にツバはきかけられますが、いつかきっといいことある。いしけりさんの書いていることは大事なことで、誰かの支援をするときには大なり小なりこういう側面はある*2。仮に正しいとしても、正しいことが正しいというだけで通る世の中ではないので、正しいことを通すためには、正しさとは別のなにかに依拠して通すことになる。それはたとえば法であり、法とは国家権力に由来するものであり、つまり、国家権力と戦う場合にも、国家権力を使う、ということになる。ゆえに、「感情にまかせて大声の出し合いしてたら、絶対に外国人は負ける。どこまでいっても少数者ですから」というのは、まったくそのとおり。
整理するなら。仮に、「大声」が通らないことがそもそもおかしな状況だとしても、そういうおかしな状況で物事を通そうとするなら、「大声」が通らないという現実を前提して「戦略」を考えるしかない。……ただ、もう周知のことだと思うけど、こういうことを書けば書くほど、「「大声」が通らない」という状況を前提した言説を垂れ流すことになる。さらに、こういうことをわからない誰かを批判する場合には、自らが「「大声」が通らない」状況の代弁者となり、その状況に対する(意図せざる)擁護者のふるまいになっていく。排外主義者がいしけりさんのコメントにスターをつけることの背景の、少なくとも一つは、こういうものであって。いわゆる「観客席」問題なわけですが。
*1 : 訂正:「furry」→「flurry」。失礼致しました。
*2 : 「抑圧されている当人」は「大声」どころか「声が出せない」こともしばしばなので、それはどうなのか、というのもあるけども。まぁ、本論と関係ないので。
いしけりさんがこの厄介な両義性に配慮しているようには見えなかったのだけど、それはさておき。両義性があろうがどうであろうが、いしけりさんが指摘した現実はあり、その中でどうするか、という話は残る。だから、個人の責任でブログで記事を書くレベルはともかく、実際にデモなどの現場に出かけていく段階であれば、そこには共有された(されるべき)問題があり、それは「個人の責任で」に収まりきらない。だから、「反日上等」というのは、たとえば、僕ならば使わないし、デモの主催者が懸念を示す、自粛を要請する、というのはよくわかる。
ただ、昨年の論争のときには、(いしけりさんは知らないが)いしけりさんの同調者に日の丸好きな人とかいて、日の丸擁護の立場からの非難と当事者重視の立場からの非難をゴチャマゼにしてる人がいたりした。当然、先に述べた両義性に配慮するなんてこともなかったわけで。少なくとも、話がややこしくなったことの責任が、「反日上等」擁護者にのみあると理解する人は最悪、くらいには思う。
と同時に、「反日上等」批判者は、「観客席」を説得の相手とみなす一方で、「反日上等」擁護者を、そうは見なさない。一方的に指示し、それを聞かないなら非難し、「来るな」と言う=排除する。というわけで、「反日上等」批判者の言説は、「反日上等」擁護者への「運動として」どうなのよ、というものではあった。それはダブスタだろ、というのはいつも思う。
話を戻して。というわけで、線引きをするしかない。僕の場合は、自分のブログなどでは「反日上等」だろうがなんだろうが、好きなように表現している。ただ、その場合には、できるだけ他の人と「つながらない」ことが大事だと思ってる*3。実際に外に出て人とつながって行動する場合には、具体的に何を取るための運動なのかを考えて、それこそ「観客席」向けの配慮が必要だと思ってる。僕の「観客席」批判は、「観客席」対策が不要であることを主張するものではない。具体的にどのような「観客席」対策をするかは、書かないけれど。
なぜ書かない。こういうことは、一緒にデモをやる仲間と企画の相談レベルで話されるべきことであって、ネットの公開の場でやれば、それは「観客席」を前提した話をするということを通じて、パフォーマティブに「観客席」を強化するから。これがつまり、両義性。
ただ、「観客席」そのものへの批判は必要だと思うので、僕はブログではそういうことを書いている。逆に言えば、自分が直接に関わる運動の話はブログでは(あまり)できない。それは「観客席」への配慮を含んだものになるしかないんだもの。……なので、こう書くと驚くかもしれないけれど、いしけりさんが外国人問題で精力的に情報発信しはじめたとき、あやういなぁとも思ったのだ。あんな風にクラッシュするとは思わなかったけど、少なくとも、まったく予想外というわけでもなかった。
*3 : 好意的なコメントは割と放置する傾向があるのは、そのせいでもある。
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