▼ 2010/03/02(火) エルサレム賞を振り返る
【日記】
昨年1月に、村上春樹がエルサレム賞を受賞した。それで「村上春樹、エルサレム賞受賞おめでとう!!!」などというふざけた記事を書いたわけだけど。その後、いろいろあって、1月、2月は、この関連記事ばかり書いてた。もう1年経つのか。
あの頃、一番最初から念頭にあったのは、パレスチナ占領という現実とエルサレムでの文学賞の受賞記念パーティという現実をつなぐものについて。依拠するのは、これらがつながっているという事実であり、批判のターゲットは、これを切断しようとする発想である。その発想を、村上春樹もろとも批判するのか、それとも、村上春樹を踏み台にして批判するのか。それはスピーチ次第でどちらでもよいのであって、テクストを読み込んだ上でやるのであれば、どちらでもよいはずだし、どちらもいけたはずだ。
大事なことは、スピーチの内容以上に、そのスピーチがなされる文脈だった。スピーチの内容がどうあれ、そのスピーチはある文脈の上に置かれた。そこでパレスチナ問題に触れて語ったのであれば、少なくともそこにおいては文学とパレスチナ問題をセットで話題にしなければならない状況が生じたのだし、仮に一切触れずに語ったのだとすれば、その「一切触れずに語った」こと自体がパレスチナ問題の文脈において意味を持っただろう。それは、「文学に用がある」「パレスチナに用がない」人においてさえ、パレスチナ問題に対する無視と無関心を破らざるをえない一瞬ではあった。
隠蔽する。ということは、いつでも両義的である。隠蔽するふるまい自体が、そこに隠蔽されたなにかがあることを示してしまうからだ。その意味で、シオニストたちにとってもっとも望ましかったことは、エルサレム賞が人々の注目を集めると共に、パレスチナ問題に注視する人たちからのみ黙殺されることだったろう。
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