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MOJIMOJI's BLOG

2010/08/30(月) 2010-08-30

はてブ日記

 毎日同じこと書くのもイヤなのだが、事実がそのとおりなんだからしょうがない。暑い。今日も大変に暑い。

 ディヴィドソンの寛容の原理について。おおむね以下のように。森本浩一『デイヴィドソン』を参考に。

(a) xは時刻tにおいて「シュプルラグ」を真とみなしており、しかも時刻tにおいてxの近くで雨が降っている。
(b) xが時刻tにおいて発話した「シュプルラグ」が真であるのは、時刻tにおいてxの近くで雨が降っている場合その場合に限る。
(c) (当の言語のいかなる話し手がいかなる時点に発話したとしても)「シュプルラグ」が真であるのは、雨が降っている場合その場合に限る。*1
 観察データとして集めることができるのは(a)ですが、私たちはそこから(b)が導けるかのように解釈するわけです。それが可能なら、(a)と同様のデータがたくさんあれば、(c)という認識に到達することもできそうです。しかし、(a)から(b)が導けることを保証するものはありません。私たちはどのようにこの溝を跳び越えるのでしょうか?

 ここでおもしろいのは、デイヴィドソンは「どうやったらこの溝が跳び越えられるか」などとは考えないことです。「コミュニケーションが成立するとは、この溝が跳び越えられるということなのだ」といきなり言い切ります。実際に飛び越えられているかどうかは知らないが、飛び越えたことにする。これが寛容の原理です。そうしないと、どんな解釈も始まらないからです。

 しかし、「シュプルラグ」が「雨が降っている」の意味でない場合というのは、いかにもありそうです。その場合はどうなるのでしょうか?もちろん、いろいろと不都合が生じるでしょう。たとえば、「シュプルラグ」と言うので傘を持って出てみたら、雨は降っていない。あるいは、雨が降っているので「シュプルラグだね」と言ってみると、首を振って否定された*2。なんだかうまくいかない。それでは、ということで、僕らは先の(a)(b)(c)を次のように置き換えて考えてみるかもしれません。
(a') xは時刻tにおいて「シュプルラグ」を真とみなしており、しかも時刻tにおいてxの近くで日が翳っている。
(b') xが時刻tにおいて発話した「シュプルラグ」が真であるのは、時刻tにおいてxの近くで日が翳っている場合その場合に限る。
(c') (当の言語のいかなる話し手がいかなる時点に発話したとしても)「シュプルラグ」が真であるのは、日が翳っている場合その場合に限る。
 「雨が降っている」ことと「日が翳っている」ことは同時に起ることが多いとすれば、最初の勘違いもありそうな話ではあります。そこで、(a')(b')(c')で考え直してみる。このとき、その後のコミュニケーションで齟齬が生じないならば、なるほど、「シュプルラグ」は「日が翳っている」という意味でよさそうです*3

 大事なポイントは、「シュプルラグ=雨が降っている」ではどうもマズイらしいと気づくためには、寛容の原理にしたがっている必要がある、ということです。別様に言えば、寛容の原理を採用しない場合、解釈に失敗することさえできない。コミュニケーションを成立させたいと思うなら、寛容の原理を採用しないわけにはいかないわけです。

*1 : 森本50〜51ページより。

*2 : 首を振るのが否定を意味する、ということはわかっているものとしましょう。

*3 : とはいえ、「雨が降っている」かつ「日が翳っている」ときに、「雨」より「日差し」の方により強い関心を向ける文化というのは、ちょっと変わった文化だなぁ、とは思うわけですが。


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