▼ 経済ってなんだ、その2
承前。
働けるときに働いて、お金を蓄えておく。病気や怪我などなんらかの理由で働けなくなったときには、蓄えたお金を取り崩してしのぐ。子どもの進学などまとまったお金が必要になる状況もそれなりに予測できたりするから、それにも備えて時間をかけてお金を蓄えておいたりする。多少なりとも計画的に生活していこうと思えば、貯蓄について考えないわけにはいかない。
ところで、私たちは「貨幣で」貯蓄する。では、「実物で」貯蓄することができるだろうか。少し考えてみれば、かなり無理があることがわかる。もしものときに備えて、食べ物を蓄えておこう。着る物を蓄えておこう。すると、食べ物は腐るし、着る物は虫に食われたりその他さまざまな理由で劣化する。モノの性質によって違いはあり、比較的保存に適したモノもあるけれど、モノというのは時間の経過とともに大なり小なり劣化するものである。つまり、モノで貯蓄することはできない。
モノは貯蓄できない。この認識を手放さないようにしながら、社会全体における貯蓄の意味について考えてみよう。Aさんは、働けるときに働いてモノを作り、それをBさんに売ってお金にし、そのお金を蓄える。ここで、そのモノを買ったBさんに視点を移してみよう。Bさんは、お金を払ってモノを買っている。そのモノは蓄えておくことができないので、おそらくは使うのだろう。というより、元々、使うために買ったのだろう。以上は当たり前のことだ。
誤解を避けるために、もう一ステップ追いかけておこう。Bさんは、買うお金をどこから調達したのだろう。おそらく、Bさんもなんらかの形で働いて、それをCさんに売ってお金にしたのだろう。Bさんにおいて、「Cさんにモノを売って得たお金」と「Aさんからモノを買って手放したお金」がリンクしている。では、Cさんはどうだろうか。Bさんと同様に「Dさんにモノを売って……」という話を続けることができるが、そうではないケースを考えよう。Cさんは借金した(あるいは、過去の貯蓄を取り崩した)のだ。つまり、Aさんにおける貯蓄の増加は、Cさんにおける借入の増加(または貯蓄の減少)とリンクしている。誰かの貯蓄と別の誰かの借金がリンクする*1ことで、初めて話を閉じることができるわけだ。モノをモノとして貯蓄することはできないのだから、これは別段不思議な話ではない。
以上を踏まえて、経済全体を実物の視点から見ると次のようになる。私たちみんなの中で、働ける人(と働く人)が働き、生きていくのに必要なたくさんのモノたちを作る。それを、働けない人や働かない人も含めたみんなで分けて、それで今日を暮らす。今日作ったモノは、今日生きているみんなで使う。余ったものは蓄えておけず、捨てるしかない。それを明日も明後日も、そのまた次の日も続けていく*2。それが経済の真実の姿だ。
このことから、次のことを言わねばならない。もし、あなたが若いときにたくさん働いて、たくさん蓄えて、その蓄えで老後の生活をしているとしても、それはあなた一人の力で生きていることを意味しない。あなたが若いときにどんなにたくさん働いたのだとしても、年を取って働けなくなって蓄えた「お金で」生活しているのであれば、あなたはその時に働いて、働けている人たちが必死で作ったモノたちを分けてもらって生きていることになる。そもそも、「お金で貯蓄できる」という事実そのものが、経済社会が機能しつづけていることを前提しているのであり、決定的に社会に依存したものでしかない。
経済全体の中に、一人ひとりの生活がある。富める人も貧しい人もいる。しばしば、富める人においては、自らの資産で暮らしていることを持って「自分の責任で」暮らしているかのように考える人がある。しかし、実物レベルで見れば、まったくそんなことはなく、あなたも他のすべての人と同じように社会に依存してしか生きられないのであり、社会の維持と運営に対して責任がある。あなたの富そのものが社会に依存して初めて成り立つのであるから、その社会に暮らす人々のためにその富の拠出を求められることがあるし、富の大きさに比例して(あるいは比例以上の割合で)大きな負担を求められることもあるだろう。そして、それは当然ですよ、ということを承知しておいてもらいたい。
もちろん、「それにしてはちょっと負担が大きすぎるんじゃない?」というような不満はあっていいし、表明してもいいだろう。私見によれば、現状での負担はあまりにも小さいものであるが、それは少なくとも議論の余地のあることだ。具体的にどれくらいの負担が求められるかについては、より具体的な議論が必要となる。ただし、少なくとも言えることは、「自分の富は自分のものであって、出さなくてもいいはずの負担を強いられている」という認識は完璧にまちがっていることだ。そうではなく、「自分の富は第一義的には社会のものであって、社会の維持・運営のための費用を拠出するのは当然であって、その残りに対してのみ自分自身の権利がある」、ということなのだ。
続く。
働けるときに働いて、お金を蓄えておく。病気や怪我などなんらかの理由で働けなくなったときには、蓄えたお金を取り崩してしのぐ。子どもの進学などまとまったお金が必要になる状況もそれなりに予測できたりするから、それにも備えて時間をかけてお金を蓄えておいたりする。多少なりとも計画的に生活していこうと思えば、貯蓄について考えないわけにはいかない。
ところで、私たちは「貨幣で」貯蓄する。では、「実物で」貯蓄することができるだろうか。少し考えてみれば、かなり無理があることがわかる。もしものときに備えて、食べ物を蓄えておこう。着る物を蓄えておこう。すると、食べ物は腐るし、着る物は虫に食われたりその他さまざまな理由で劣化する。モノの性質によって違いはあり、比較的保存に適したモノもあるけれど、モノというのは時間の経過とともに大なり小なり劣化するものである。つまり、モノで貯蓄することはできない。
モノは貯蓄できない。この認識を手放さないようにしながら、社会全体における貯蓄の意味について考えてみよう。Aさんは、働けるときに働いてモノを作り、それをBさんに売ってお金にし、そのお金を蓄える。ここで、そのモノを買ったBさんに視点を移してみよう。Bさんは、お金を払ってモノを買っている。そのモノは蓄えておくことができないので、おそらくは使うのだろう。というより、元々、使うために買ったのだろう。以上は当たり前のことだ。
誤解を避けるために、もう一ステップ追いかけておこう。Bさんは、買うお金をどこから調達したのだろう。おそらく、Bさんもなんらかの形で働いて、それをCさんに売ってお金にしたのだろう。Bさんにおいて、「Cさんにモノを売って得たお金」と「Aさんからモノを買って手放したお金」がリンクしている。では、Cさんはどうだろうか。Bさんと同様に「Dさんにモノを売って……」という話を続けることができるが、そうではないケースを考えよう。Cさんは借金した(あるいは、過去の貯蓄を取り崩した)のだ。つまり、Aさんにおける貯蓄の増加は、Cさんにおける借入の増加(または貯蓄の減少)とリンクしている。誰かの貯蓄と別の誰かの借金がリンクする*1ことで、初めて話を閉じることができるわけだ。モノをモノとして貯蓄することはできないのだから、これは別段不思議な話ではない。
以上を踏まえて、経済全体を実物の視点から見ると次のようになる。私たちみんなの中で、働ける人(と働く人)が働き、生きていくのに必要なたくさんのモノたちを作る。それを、働けない人や働かない人も含めたみんなで分けて、それで今日を暮らす。今日作ったモノは、今日生きているみんなで使う。余ったものは蓄えておけず、捨てるしかない。それを明日も明後日も、そのまた次の日も続けていく*2。それが経済の真実の姿だ。
このことから、次のことを言わねばならない。もし、あなたが若いときにたくさん働いて、たくさん蓄えて、その蓄えで老後の生活をしているとしても、それはあなた一人の力で生きていることを意味しない。あなたが若いときにどんなにたくさん働いたのだとしても、年を取って働けなくなって蓄えた「お金で」生活しているのであれば、あなたはその時に働いて、働けている人たちが必死で作ったモノたちを分けてもらって生きていることになる。そもそも、「お金で貯蓄できる」という事実そのものが、経済社会が機能しつづけていることを前提しているのであり、決定的に社会に依存したものでしかない。
経済全体の中に、一人ひとりの生活がある。富める人も貧しい人もいる。しばしば、富める人においては、自らの資産で暮らしていることを持って「自分の責任で」暮らしているかのように考える人がある。しかし、実物レベルで見れば、まったくそんなことはなく、あなたも他のすべての人と同じように社会に依存してしか生きられないのであり、社会の維持と運営に対して責任がある。あなたの富そのものが社会に依存して初めて成り立つのであるから、その社会に暮らす人々のためにその富の拠出を求められることがあるし、富の大きさに比例して(あるいは比例以上の割合で)大きな負担を求められることもあるだろう。そして、それは当然ですよ、ということを承知しておいてもらいたい。
もちろん、「それにしてはちょっと負担が大きすぎるんじゃない?」というような不満はあっていいし、表明してもいいだろう。私見によれば、現状での負担はあまりにも小さいものであるが、それは少なくとも議論の余地のあることだ。具体的にどれくらいの負担が求められるかについては、より具体的な議論が必要となる。ただし、少なくとも言えることは、「自分の富は自分のものであって、出さなくてもいいはずの負担を強いられている」という認識は完璧にまちがっていることだ。そうではなく、「自分の富は第一義的には社会のものであって、社会の維持・運営のための費用を拠出するのは当然であって、その残りに対してのみ自分自身の権利がある」、ということなのだ。
続く。
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